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暑くない夏
あつくないなつ
作品ID59969
著者山川 方夫
文字遣い新字新仮名
底本 「親しい友人たち 山川方夫ミステリ傑作選」 創元推理文庫、東京創元社
2015(平成27)年9月30日
初出「朝日新聞(夕刊)」1962(昭和37)年7月1日
入力者toko
校正者najuful
公開 / 更新2021-07-18 / 2021-06-28
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

「……夏が来たのね」
 女は、天井を見上げたままでいった。
 白い天井。白い壁。白いシーツ。女の顔も白い。
「空を見ていると、わかるの。ついこないだまで、どんよりと空の濁った日ばかりがつづいてたわ。まるで、水に落ちたケント紙のような色の空だったわ。……それが、見てごらんなさい、あんな真青な色になって、むくむくした力こぶみたいな雲が見えるわ」
 女は声を落し、彼に笑いかけた。
「もう、一年になるのね」
 うなずいて、彼も窓を見やった。窓の外は、一面に濃い群青の夏の空だ。――この部屋は五階だ。なるほど、ベッドに寝たきりでいるのだったら、見えるのは空しかない。
「学校の話をしようか?」
 二人は、大学のクラス・メートだった。が、女はちがう返事をした。
「お願い。窓のカーテンを閉めて」
 彼はカーテンを引いた。女は、大きな呼吸をした。ふざけたような声でいった。
「……私には、もう、夏も冬もないの。私はもう、なにも感じないわ。暑くも寒くもなく、いつも気密室に入っているみたいなのよ。みんな、他人の夏、他人の冬でしかないの」
 何万人、いや、何百万人に一人という奇病だった。去年の夏、突然高熱を発した二十歳の彼女は、そのまま全身が動かなくなった。
 意識は明瞭だが、五官の感覚がほとんどなく、あとは死を待つほかはないのだ。医者は、最大限一年しかもたないと明言した。その一年の期限が、もはや目の前に来ている。
 部屋がむしむしする。彼はハンカチで汗をふいた。わざと明るい声でいった。
「うらやましいよ。暑さ知らずだなんて」
 女は、目のすみでちらりと彼に笑った。
「そうね。いまに文化が進歩して、人間たちが気温を一定に調節して、この世から夏や冬を追放することになるのかもしれない。……私、そんな未来の国に住んでいるみたいね」
「そうさ」と、彼もいった。
「そうしたら、夏や冬は、季節の名前じゃなく、土地の名前になっちまうさ。金持ちだけがそれを味わいに出かけて行く、遠い土地の名前に」
「夏や冬は、つまりぜいたく品になるのね」
 笑って、女は目をつぶった。
「……でも、夏は、もう私にははっきりとは思い出せない。夏、夏っていくら考えても、なにか子供のころに聞いた海岸の物音みたいな遠いぼやけた思い出しか、私にはもう浮かばないの。……ねえ、夏って、どんなものだったの? 暑いって、どんなことなの?」
 青く血管の透けるような白い頬で、女は、でも、固く目を閉ざしていた。ふいに、涙がその目じりからあふれた。頬に光の筋を引いた。
 ……やがて、彼は立ち上がった。涙の線をのこしたまま、女は眠っていた。彼は、いつもと同じように、その女の顔を、これが最後かもしれぬという気持でしばらくみつめてから、病室のドアを押した。病院の表へ出た。
 女の声が、まだ耳に聞えていた。――ねえ、夏って、どんなものだったの? 暑いっ…

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