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草の中
くさのなか
作品ID60018
著者横光 利一
文字遣い旧字旧仮名
底本 「定本 横光利一全集 第一卷」 河出書房新社
1981(昭和56)年6月30日
初出「文壇 第一卷第一號」1924(大正13)年7月1日
入力者岡村和彦
校正者きりんの手紙
公開 / 更新2020-12-30 / 2020-11-27
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 村から少し放れた寺の一室を借りた。そこでその夏を送ることにした。寺の芝生の庭には鐘樓と塔とがあつた。門には鐵の鋲を打つた大きな扉が夜でも重く默つて開いてゐた。塔の九輪の上には鳩がとまつてゐた。靜かな山寺である。寺には和尚が死んでゐなかつた。誰もゐないその寺の中を時々私は歩いてみた。佛壇もなければ内陣もなかつた。ただ平安朝時代の貴族の廣い館のやうで、裏には古い塚の傍にこれはまた清らかな水を滿々と湛へた泉があつた。雜草は丈延びて枯葉の中から生え上つてゐた。
 私はこの寺を借りるとき番人から、
「あなたのお好きなやうに、」と云ふ答へを得た。番人は私に寺を任せて旅へ出て行つた。
 私は一日に一度鐘樓に登つて釣り鐘を撞けばそれでよかつた。三つの捨て鐘を打つて、十二撞の繩を引くのである。その他の時は私は陽が輝けば芝生の上に出て、高い銀杏の樹の影に眠つた。微風は湖の方から吹いて來た。
 夕暮になると門の厚い扉の前へ村の娘らが塊まつて遊びに來た。彼女らは門から中へは這入らなかつた。芭蕉の葉のゆるやかに搖れる下で彼女らは華やかに笑つてゐた。空は湖の明るさを受けて薄桃色に輝いてゐた。芝生は靄の中でいよいよ緑の色を増し始めた。行水に洗はれた娘達はそこで母親の呼び聲のするまで笑ひ合ふのである。彼女らは京の娘の美しくなよやかな風を持つてゐた。浴衣に赤い帶を絞め、長い袂を微風に靡かせて若者達の話をした。私が傍を通ると彼女達は急に話をやめて默つて了つた。
 或る日、Kが海を越えて遠くからぶらりと來た。彼は戀人を亡くしてその淋しさを紛らすためにやつて來たのだと直ぐ分つた。
「鈴子さんはいい人だつたね。」と私は云つた。
 彼は默つてゐた。鈴子とは彼の戀人の名前である。
「靜かで、愛情が深かつた。」
 私は堂を廻つてゐる高縁に蹲んで蘚の上を眺めてゐた。足の裏に板の木目を氣持ちよく感じながら夜の來るのを待つた。山蟻が柱を傳つて登つて來た。
「ここはいい所だね。」とKは云つた。
「僕は氣に入つてゐるんだ。それにこの家は僕の自由になるんだ。」
「いいね。」
 彼は跣足のまま飛石の上へ降りて庭の奧へ奧へと歩いていつた。私も彼の後からついていつた。樹の深深と[#「深深と」はママ]垂れ下つた枝を幾つも潛り續けて池の傍へ出た。藤が雜草の中から這ひ出て池の上へ垂れ込んでゐた。鯉は水草の下に深く沈んでゐた。
「ここはあまり淋し過る。」とKは云つた。
「雉子が澤山ゐるんだよ。」
「さうだらう。」
 彼は暗く繁つた周圍の樹々を眺めてゐた。苔をつけた石塔が一つ傾いて草の中に立つてゐた。笹の中を潛る猫の音がした。私は高い一本の松の樹を仰いだ。
「松と云ふものはどこか淋しいものだね。なぜだらう。」
「風が渡ると松はとても淋しいよ。」
「ひとり長生きをすると云ふ感じを強く受けるからぢやないか。」
「樹を見てゐるといつもさ…

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