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愉快な教室
ゆかいなきょうしつ |
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作品ID | 60036 |
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著者 | 佐藤 春夫 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「定本 佐藤春夫全集 第35巻」 臨川書店 2001(平成13)年4月9日 |
初出 | 「マドモアゼル 第一巻第五号」小学館、1960(昭和35)年5月1日 |
入力者 | よしの |
校正者 | 持田和踏 |
公開 / 更新 | 2022-12-18 / 2022-11-26 |
長さの目安 | 約 21 ページ(500字/頁で計算) |
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(1)
ラフカディオハーン――帰化して日本の名を小泉八雲と名告った文豪の意見によると、人間の草木や小動物に対する愛情の有無というものは先天的な天性によるもので、後天的に教育によっては与えることのできないものであるということであるが、幸なことにわたくしは、この天性を父母から極めてゆたかに受け継いで来ている。母は草木の好きな人であったし、父は小動物を愛する人であった。わたくしはこの天性を世にも有難いものに思い、これあるがためにわたくしは人生を他の人々よりどれだけ楽しく生きているか知れないといつも感じている。
わたくしは二三年前、人から橙色の美しくて啼きのいいローラカナリヤを贈られて愛育していたのに、この間、死なせてしまい、このごろ窓の外に春の陽ざしのうららかなのを見ると、カナリヤが生きていたら、もうそろそろ啼きはじめるころなのにとその声の聞かれないのがさびしく、時にはテレビーの電話の音などをそら耳にカナリヤの歌に聞くことなどさえある。
わたくしばかりでなく、わたくしの一族の者は誰も彼もみなこの好もしい天性をそなえている。先ず息子の松吉は数年前、酔っぱらって夜更けに帰る途中、春の雪解のなかで泥んこになっていた小猫をかわいそうなと拾い取って外套のポケットへ入れて来たことがあった。
「まだ眼もあいていないこんなものはつれて来ても育つものか。もう死にかかっている」
というのに、牛乳などを与えていたが、それさえ飲めないで、果して一二日のうちに死んでしまった。
それでもなおこりないで、その次には前のよりはいくらか大きいのを連れて来て、今度のは無事に育ってチビというやすっぽい名にもかかわらず、すばらしく大きく、堂々たる虎猫になり、今はデカチビと呼ばれて、現にわたくしの家のなかにのさばり返っている。別にしつけたわけでもなかったが、カナリヤの籠は一度もねらったことはなかった。なかなかかしこい奴でドアや大きな引戸なども上手に開けて出入する。
チビがはじめて家に来たころ、これをうらやましがっていた、わたくしの甥の長女のM子は、どこからかまっ白な狐のようにスマートな小猫をつれて来てミミーと名づけて愛育しはじめた。M子の家はわたくしの家からほんの百二三十歩という、ごく近いところにあるから、デカチビはミミーと友だちになって、ここもわが家同様に心得て毎日のように遊びに行っている。
毎日ミミーのところへ出かけるのはデカチビばかりではなく、わたくしの家内も同じことである。うちの婆さんはM子の祖母に当るので孫たちのところへ行くのである。
うちのばあさんはうちのデカチビが、いつもご馳走をどっさり食べているのに孫のところのミミーがあまり粗食でかわいそうだと、時々デカチビのご馳走の一部分を持って行ってやるので、ミミーはうちのばあさんの足音をおぼえて遠くから耳を傾けて待ち受けていると孫た…