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詩への逸脱
しへのいつだつ
作品ID60074
著者有島 武郎
文字遣い旧字旧仮名
底本 「有島武郎全集第九卷」 筑摩書房
1981(昭和56)年4月30日
初出「有島武郎個人雜誌 泉 第二卷第四號」叢文閣、1923(大正12)年4月1日
入力者きりんの手紙
校正者木村杏実
公開 / 更新2021-03-04 / 2021-02-26
長さの目安約 2 ページ(500字/頁で計算)

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本文より


 私は嘗て詩を音樂に次ぐ最高位の藝術表現と云つたことがあつた。
 凡ての藝術は表現だ。表現の焦點は象徴に於て極まる。象徴とは表現の發火點だ。表現が人間の覺官に依據して訴へ、理智に即迫して訴へようとするもどかしさを忍び得なくなつた時、已むを得ず赴くところの殿堂が即ち象徴だ。だから象徴とは、魂――若しそんな抽象的な言葉が假りに許されるなら――が自己を示現せんとする悶えである。而して詩は音樂に最も近くこの象徴へと肉迫する。少くとも文學といふ分野に於て、詩に優つて純粹に藝術の遂げんとする要求を追求してゐるものはない。
 戀人に取つて、眼の言葉と、口の音樂とは遂に最後のものではない。それは説明だからだ。如何に巧妙なる説明も、それは結局投影の創造であつて物そのものではないだらう。而して抱擁が來る。抱擁も然し戀人に取つてはまだもどかしい。而して死が來る。戀は生命の灼熱であつて、而して死は生命の破却だ。何といふ矛盾だらう。然しながら人間がその存在の中にさぐり求めるあらゆる手段の中、死のみが辛うじて、凡てを撥無してもなほ飽き足らない戀人の熱情を髣髴させるのだ。戀人はその愛するものゝ胸に死の烙印もて彼れ自身を象徴するのだ。
 人は自ら知らずして人類を戀してゐる。彼れの魂は直接に人類に對して自己を表現せんと悶えてゐる。かくて彼れは彼自身を詩に於て象徴する。
 私も亦長い間この憬がれを持つてゐた。説明的であり理知的である小説や戲曲によつて自分を表現するのでは如何しても物足らない衷心の要求を持つてゐた。けれども私は象徴にまで灼熱する力も才能もないのを思つて今まで默してゐた。
 けれども或る機縁が私を促がし立てた。私は前後を忘れて私を詩の形に鑄込まうとするに至つた。どんなものが生れ出るか私自身と雖もそれを知らない。私は或は私の參詣すべからざる聖堂を窺つてゐるのかも知れない。然し私にはもう凡てが已むを得ない。長くせきとめてゐた水が溢れたのだから。
(『泉』大正十二年四月)



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