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思い違い
おもいちがい
作品ID60093
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「暗がりの弁当」 河出文庫、河出書房新社
2018(平成30)年6月20日
初出「朝日新聞 PR版」1964(昭和39)年12月
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者noriko saito
公開 / 更新2025-08-25 / 2025-08-23
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 老人がいる限り迷信はなくならないという。七十歳の老人は、五十歳の壮年者より経験が広く深く、その経験から会得した積は――少なくとも当人に関する限り――動かしがたい価値をもつからである。実際には環境や経済事情や、個性や個躰のバイタリティによって、事情は万差万別なのであるが、人間生活の普遍的な面においては共通するものが多く――というのは老年まで生きのびるということ自体になんらかの共通性があるのであって――したがって或る種のことがらについては、固定観念が一般的に信じられるようになるらしい。たとえば朝湯が健康のかぎであるとか、毎朝の水風呂こそなが生きの秘訣であるとか、枕を北向きにして寝ると魔がさすとか、家を出ようとして靴の紐が切れたら、その日の外出はやめるべきであるとか、その他もろもろのタヴーの禁忌がある。私の尊敬する杉靖三郎博士にしても、某週刊誌の食養生についてのアドバイスを読むと、専門学理による判断の中に、しばしば博士の経験によるドグマが散見されるのである。ほぼ同一条件をそなえた投稿家の、Aに対しては「牛乳は一日一本がよろしい」と忠告し、Bに対しては「一日に五本以上を飲め」とすすめている。「米飯はいけません」と忠告したあとで、他の投稿者には「米は日本人にとって古くからの主食である」と賛成している。昔は一日に生ま水を一升飲めという医学者があり、流行したらしい。同時に「生ま水を多飲することは腎臓の大きな負担となり、百害あって一利なし」といきまく医学者もあった。これらは純粋な生理医学の判断に、個人的経験の積が加わるからであろう。そしてどっちにしろ、死なないやつは生きるのである。
 私の文学青年時代からの友人に、石井信次という紳士がいた。石井家はこの市(横浜市)でも指折りの旧家であり大地主であり、彼自身はY校出身の秀才で、ニューヨーク・スタンダード石油会社の課長にまで昇進した。酒もタバコもたしなまず、その生活は極めて規則的、かつ栄養学の指示を外れることがなかった。まことに紳士の範とすべき存在であったが、四十二歳のとき胃潰瘍で亡くなってしまった。
 ――死んでみてから彼は怒ったにちがいない、と私は友人たちによく話したものだ。タバコも酒も飲まず、不摂生もしないのに胃潰瘍で死ぬとはなにごとか、人をばかにするなってさ。
 私は大森にいたじぶんから、荒暴に酔って身心耗弱状態におちいることを繰り返してきた。規則正しい生活を続けていると、人躰は同一刺戟によって活力を消耗しやすい。ときどきバランスをこわし、人為的に耗弱させれば、却って肉躰はそれを恢復させようとして眼ざめ、活力を呼び起こすものだ、というのが私の信念であり、こんにちまで大病もせずに生きてきた。今年になってからも、幾たびか悲鳴をあげるほど乱酔し、周囲の者にしばしば心配をかけたが、二日も休めばけろっとして仕事にかかれる、という…

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