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酒みずく
さけみずく
作品ID60105
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「暗がりの弁当」 河出文庫、河出書房新社
2018(平成30)年6月20日
初出「朝日新聞 PR版」1964(昭和39)年12月
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者noriko saito
公開 / 更新2025-09-24 / 2025-09-23
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 私はいま二週間以上も酒びたりになっている。いま書いている仕事のためとは云わない、けれどもこの仕事は、半年もまえから計算し、精密なコンティニュイティを作り、それを交響楽と同じオーケストラ形式にまとめあげた。そうして書きだしたのだが、作中の人物は半年以上ものつきあいであり、誰が出て来てもみな古馴染で、小さな疣や痣や、めしの喰べかたや笑い声までがわかっていて、その男、または女の出番になると、うんざりして机の前から逃げだすか、酒で神経を痺れさせるほかはなくなるのである。いろいろ狼狽してみた。三浦半島へいったり、藤沢でだらしない遊びをし、二人の大切な友人に迷惑をかけたり、また華やかな街で五日も沈没したりした。
 はたから見れば、これらはたのしい贅沢としかうつらないだろうが、当人は一刻々々が死ぬ苦しみなのだ。声に出して「ああ死んじまいたい」と、のたうちながら喚いたこともあった。
 ――酒みずく、という吉井勇の歌があった。酒びたりになるほかに、この世に生きている価値はない、というような意味の歌だったと思うが、もちろん正確ではない。違った意味の歌だったかもしれないが、いまの私にはそうとしか思えないし、いまの自分をそっくりあらわしているように思えるのだ。
 朝はたいてい七時まえに眼がさめる。すぐにシャワーを浴びて、仕事場にはいるなり、サントリー白札をストレートで一杯、次はソーダか水割りにして啜りながら、へたくそな原稿にとりかかる。原稿はずんずん進むけれども実感がない、嘘を書いているようで、躯じゅうに毒が詰まったような、不快感に包まれてしまう。私はそれをなだめるために、水割りを重ね、テープ・レコードの古典的通俗的な曲をかけるか、ベッドへもぐり込んでしまう。いっそこの瞬間に死んじまえばいいのに、などと独り呟きながら。念には及ばないだろうが、死にたいなどと云う人間ほど、いざとなると死を恐れるあまり、じたばたとみれんな醜態を曝すものだという。どんな死にかたをしようと、人間の死ということに変りはないのだが、世のひとびとはそこに大きな関心をもち、褒貶をあげつらう。やがて自分たちも死ぬのだ、ということは忘れて。
 さて、ひるになるが食欲はまったくない。そこで客が来れば大いに歓談してグラスの数をかさね、来なければ陰気な気分で、やはり水割りのグラスをかさねるわけである。どうにもやりきれないときには、しきりに電話をかけて友人を呼ぶのだが、みな仕事を持っているのでなかなか「うん」とは云わない。
「人間はいつ死ぬかわかりゃしないのに」と私は独りで呟く、「そんなにいそがしがってなんの得があるんだろう、みんなあんまり利巧じゃないな」
 仕事に関係のある友人以外には会わないことにしている。演劇、映画、放送局の諸氏にも原則として会わない。これらの諸氏は私がどう抵抗しようと、あいそよく笑うだけで、やりたいと…

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