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多忙
たぼう
作品ID60109
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「暗がりの弁当」 河出文庫、河出書房新社
2018(平成30)年6月20日
初出「博浪沙」博浪社、1939(昭和14)年10月
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者noriko saito
公開 / 更新2025-07-27 / 2025-07-23
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より


 どうもいそがしくてしようがない。そう云ってもいそがしいのは仕事ではなくてもうひとつの方のことである。その方なら誰だって同じだと云うかも知れないが誰でも同じ程度なら小生としては安穏な時期である。なにしろあっと思うとたんに動きがとれなくなるのだからいやだ。いやそう云うよりも時として安穏なことがあるので、にっちもさっちもいかないのが常態だと云う方が当っているだろう。普通なら仕事の先にはもうひとつの物が約束されているであろうのに、小生の場合にはなにも約束されないのである。仕事をすることは追越されている状態を幾らか縮めるというに過ぎないのである。世に入るを計って出るを制すということがあるが、君などは出るを計って入るを制する部類だと軽蔑されても、敢てこれに抗弁する余地がないのだからいやだ。
 なにしろそういう訳でいそがしい。仕事にかかるがいなやもうすでにもうひとつの物が欲しくて喉から手が出る。仕事が届くよりもさきに喉から出た手の方が先方へさきに届く場合の方が多いかも知れない。だから此方もいそがしいが先方でその事務を執る人もいそがしいだろうと思う。仕事の方は遅れに遅れてまるで人を馬鹿にしたように遅れたうえ、もう一方の物は火のついたような騒ぎでせきたてるのだからみんな愛想をつかしているだろうと思うとわれながらいやだ。
 さて何にがゆえにこんなことを並べたかというと、小生は或る知人から妙なものを貰ったのである。……これは君に最も相応わしいと思うから進呈する、と云って呉れたのは、古色を帯びた土佐半紙の原稿用紙に達筆でなぐり書きにした一葉の手簡である。

拝啓けふの原稿三十五枚
出来致し候御一覧の上此
分計の原稿料明朝迄に御
届け被下度願上候当用迄
早々
  本郷区西片町十番
  地ノ十四号
     長谷川辰之助
酒井真様

 文面は右の如くである。即ち二葉亭四迷の手紙で、原稿料の請求にほかならない。「この分ばかりの稿料を明日の朝までによこせ」というあたり我身にひきくらべてその火急の状が彷彿とする。小生は思わずにやにやとしたのである。二葉亭がそのときどういう状態にあったかは知らない。けれども小生の空想はそのいそがしい三十五枚分の稿料を基にいろいろと発展するのである。五十枚とか或は百枚の稿料では空想に限度があるけれど「三十五枚」という数は実に身につまされる微妙さをもっているのである。これこそいそがしい種類の神髄なのである。
 二葉亭でさえ斯る手簡を遺しているではないかと思うと、是を贈れる知人のおもいやりのゆかしさに小生は頗る心胆の肥大するを覚え、且つ同時にいよいよめざましくもうひとつの物に突進しつつあるのである。……なにしろ座右に二葉亭の手簡を備えてあるのだからびくともするものではない。という訳で、なにしろいそがしくてしようがない。
「博浪沙」(昭和十四年十月)



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