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八百長について
やおちょうについて
作品ID60116
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「暗がりの弁当」 河出文庫、河出書房新社
2018(平成30)年6月20日
初出「東京新聞」1959(昭和34)年8月
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者noriko saito
公開 / 更新2025-05-03 / 2025-04-30
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 このごろ「八百長」ということがしばしば問題になるが、「八百長」そのものよりも、それをとりあげていきりたつ側のほうが、私にはひどく興ざめに感じられる。ずっとまえ、坂口安吾さんがどこかの競輪で「八百長」を発見し、この不正はどこまでも追及する。と激昂しておられた。私はあまりばかげたことなので笑ったが、そのときA紙のMさんが私をとがめて、どんなに事が軽くとも「不正を不正として糾明する態度は立派ではないか」と言った。
「それはお言葉どおりでしょう」と私は丁重に答えた。「けれどもギャンブルというものは、いかなる種類のものにも必ずインチキがついてまわる、ということが常識ではありませんか」
 私は口がうまいのでMさんは黙ってしまわれた。私は自分が生れつきギャンブルぎらいなので、へたくそな将棋を若い友人とたまに指すほか、あらゆる勝負ごとに興味がないし、知っている限りの人に「勝負ごとだけはいけませんぞ」と押しつけがましいことをいう。しかし好きな人は好きなので私がなんと言おうと風馬牛である。
 それはそれでよろしい、それならば「ギャンブルにはインチキがつきもの」であるということを認めて、おおらかな気持でたのしんでいただきたいものだ。
 私はむかし彦山光三さんの下で雑誌の「相撲号」の手伝いをしたことがあるが、相撲そのものはあまり好きにはなれなかった。いまでもラジオで聞く程度であるが、ここでもまた「八百長」うんぬんでもめている。あの一瞬で決する勝敗で八百長をするというのはたいへんなことで、もし専門家――という人たちがよくうがち過ぎをするように思われるのですが――だけにしか発見できないほど巧みにやってのけたとすれば、レスリングと同様それは美技として受け入れてもいいのではないか。
 K社のKさんなども角通(かくつうと読むんですかね)であるため、とかく勝敗に心を労するらしい。「八百長で大関や横綱をでっちあげられてはたまりませんよ」などと、宿酔の眼をやさしく細めながら、いきまかないような口ぶりでいきまかれるのである。いいじゃありませんかと私は思う。相撲協会としては利益が第一ではないでしょうが、経営の上で横綱が必要であり、大関が必要であるとすれば、やはり横綱が必要であり大関が必要なんでしょう。愛好家の最大多数もそれをよろこんでいるとすれば、専門家ないし通人(つうじんと読むのでしょうな)の、抽象的な横綱権威論などは、多数の人たちの観賞のよろこびに水をさすようなものだと思う。
 かといってもちろん、私はインチキや八百長を礼賛するものではありません。そんなことのないほうがよりよいのはたしかであるが、勝負ごとはいわば人生のぜいたくであって、生産とか、建設とか、開拓などという活動とは対象的な、有閑優雅なあそびではありませんか。
 九人がかりでたった一人の打者をいじめる野球にさえ「八百長だ」などという声…

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