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麒麟
きりん
作品ID60128
著者谷崎 潤一郎
文字遣い新字新仮名
底本 「潤一郎ラビリンスⅠ ――初期短編集」 中公文庫、中央公論新社
1998(平成10)年5月18日
初出「新思潮 第四号」1910(明治43)年12月1日
入力者砂場清隆
校正者岡村和彦
公開 / 更新2025-07-30 / 2025-07-29
長さの目安約 19 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

鳳兮。鳳兮。何徳之衰。
往者不可諫。来者猶可追。已而。已而。今之従政者殆而。

西暦紀元前四百九十三年。左丘明、孟軻、司馬遷等の記録によれば、魯の定公が十三年目の郊の祭を行われた春の始め、孔子は数人の弟子達を車の左右に従えて、其の故郷の魯の国から伝道の途に上った。
泗水の河の畔には、芳草が青々と芽ぐみ、防山、尼丘、五峯の頂の雪は溶けても、沙漠の砂を掴んで来る匈奴のような北風は、いまだに烈しい冬の名残を吹き送った。元気の好い子路は紫の貂の裘を飜して、一行の先頭に進んだ。考深い眼つきをした顔淵、篤実らしい風采の曾参が、麻の履を穿いて其の後に続いた。正直者の御者の樊遅は、駟馬の銜を執りながら、時々車上の夫子が老顔を窃み視て、傷ましい放浪の師の身の上に涙を流した。
或る日、いよ/\一行が、魯の国境までやって来ると、誰も彼も名残惜しそうに、故郷の方を振り顧ったが、通って来た路は亀山の蔭にかくれて見えなかった。すると孔子は琴を執って、
われ魯を望まんと欲すれば、
亀山之を蔽いたり。
手に斧柯なし、
亀山を奈何にせばや。
こう云って、さびた、皺嗄れた声でうたった。

それからまた北へ北へと三日ばかり旅を続けると、ひろ/″\とした野に、安らかな、屈托のない歌の声が聞えた。それは鹿の裘に索の帯をしめた老人が、畦路に遺穂を拾いながら、唄って居るのであった。
「由や、お前にはあの歌がどう聞える。」
と、孔子は子路を顧みて訊ねた。
「あの老人の歌からは、先生の歌のような哀れな響が聞えません。大空を飛ぶ小鳥のような、恣な声で唄うて居ります。」
「さもあろう。彼こそ古の老子の門弟じゃ。林類と云うて、もはや百歳になるであろうが、あの通り春が来れば畦に出て、何年となく歌を唄うては穂を拾うて居る。誰か彼処へ行って話をして見るがよい。」
こう云われて、弟子の一人の子貢は、畑の畔へ走って行って老人を迎え、尋ねて云うには、
「先生は、そうして歌を唄うては、遺穂を拾っていらっしゃるが、何も悔いる所はありませぬか。」
しかし、老人は振り向きもせず、餘念もなく遺穂を拾いながら、一歩一歩に歌を唄って止まなかった。子貢が猶も其の跡を追うて声をかけると、漸く老人は唄うことをやめて、子貢の姿をつく/″\と眺めた後、
「わしに何の悔があろう。」
と云った。
「先生は幼い時に行を勤めず、長じて時を競わず、老いて妻子もなく、漸く死期が近づいて居るのに、何を楽しみに穂を拾っては、歌を唄うておいでなさる。」
すると老人は、から/\と笑って、
「わしの楽しみとするものは、世間の人が皆持って居て、却って憂として居る。幼い時に行を勤めず、長じて時を競わず、老いて妻子もなく、漸く死期が近づいて居る。それだから此のように楽しんで居る。」
「人は皆長寿を望み、死を悲しんで居るのに、先生はどうして、死を楽しむ事が出来ますか。」
と、子…

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