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円光
えんこう
作品ID60173
副題或は“An Essay on Love and Art.”
あるいはアンエッセイオンラブアンドアート
著者佐藤 春夫
文字遣い新字旧仮名
底本 「定本 佐藤春夫全集 第3巻」 臨川書店
1998(平成10)年4月9日
初出「我等 第一年第七号」1914(大正3)年7月1日
入力者水底藻
校正者
公開 / 更新2023-05-06 / 2023-05-01
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 一人の画家がゐた。売出しの女優は花束でとり囲まれるが、彼は幸福そのものでとりかこまれた。若い美しい妻をめとることが出来た。二人して海の近くに新婚の旅をしてゐる間に新しい画室はタウンの端れに落成した。時は、悲しいものをより甚しく悲しましめる代りには、楽しいものにより一層楽ましめるといふ晩春初夏であつた。
 ‘No, not happiness; certainly not happiness! Pleasure. One must always set one's heart upon the most tragic.’といふ句を或る書物のなかから見出した時、彼が可笑くつてたまらなかつたのも無理はない。
 画室は日を経るに従うてだん/\と整うた。旅から帰つた時、彼等はそこの壁の上に海洋と海岸とのスケツチを十幾枚並べて、派手な「追想」の額縁に納めて掛けた。小卓、花瓶、壺、青銅のマスク、ゴブランの片などは、それ/″\に各の位置へやすらかに落ちついて、低い声で互に自分のことを囁いた。それと同じやうなあんばいに画家の心のなかでは彼の妻が静にところを得て来たころのことである。
 ある日の朝、画室の主人は一通の手紙を受けとつた。青い封筒で見なれない筆蹟であつた。差出人の名は封筒になかつた。多分これは画の注文であらう。
 兎に角彼は展べて読んだ。手紙は長くない。一目見て彼は、矢張然うか俺も益益大家になるわいと思つて欠伸をした。二目見て急に訝かしげに彼の壁の上を見あげた。自然と目に這入つた海洋と空とのスケツチは、紺碧が鼠色に緑色が黒に見えた。
 彼は立つて、一度ぐるつと部屋のなかを歩いて、窓のところで立ちどまつた。ガラス越しに見える地の上では、大きな紅い薔薇が細い雨にうたれて、其一輪が将にいま地の上へ砕け散つて居た。
 その時、入口の扉がたゝかれる音がした。
 少し狼狽したが、彼は声を落ちつけて
「今ちよつと用がある、もう十分ほど待つておれ。」
「はい。」
 妻は銀の茶の盆を持つて居て、扉をへだてて、変に思うた。こんなことは未だ一度もないことだつたから。けれども彼の妻はこんな時「何の御用なのよ」などと声を尖らさない方の女であつた。そこでしとやかに盆を捧げて帰つた。
 併し自分の言葉を言つて了ふとすぐ気をとり直した彼は、今追ひかへしたばかりの妻を自分から迎へに行つて、三分ほどの後には彼等は例のごとく向ひあつて朝の茶を啜つたが、「いやな天気だね」と言つた外には、その朝の感情と事実とに就て夫は妻に一言も洩さなかつた。その代りに、平日のとほりの会話を平日のとほりに交した。
 七日を経た。
 外出先から帰つた画家は、彼の机の上に二三の郵便物に雑つてまた青い手紙が、今度はものの色を誇張する燈の光を浴びながら自分を待つてゐるのを発見した。彼は用事を命じて部屋から妻を退かせた後、青い手紙を…

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