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薔薇夫人
ばらふじん
作品ID60174
著者江戸川 乱歩
文字遣い新字新仮名
底本 「江戸川乱歩と13の宝石」 光文社文庫、光文社
2007(平成19)年5月20日
入力者宇間比利央
校正者持田和踏
公開 / 更新2022-07-28 / 2022-06-26
長さの目安約 19 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 青山浩一は、もと浜離宮であった公園の、海に面する芝生に腰をおろして、そこに停泊している幾つかの汽船を、ボンヤリと眺めていた。うしろに真赤な巨大な太陽があった。あたりは見る見る夕暮の色をおびて行った。ウイーク・デイのせいか。ときたま若い二人づれが通りかかるほかには、全く人けがなかった。
 伯父のへそくりを盗み出した五万円は、十日間の旅行で遣いはたしてしまった。ポケットには、辛うじて今夜の家賃に足りるほどの金が残っているばかりだ。
 温泉から温泉へと泊りあるいて、二十一才の彼にやれることは、なんでもやって見たが、どれもこれも、今になって考えると、取るに足るものは一つもなかった。あの山、この谷、あの女、この女、ああつまらない。生きるに甲斐なき世界。
 伯父の家へは二度と帰れない。勤め先へ帰るのもいやだ。自転車商会のゴミゴミした事務机と、その前にたち並んでいる汚れた帳簿を思い出すだけでも、吐き気を催した。
 暮れて行く海と空を、うつろに眺めていると、またあの幻が浮かんで来た。空いっぱいの裸の女、西洋の絵にある聖母と似ているが、どこかちがう。もっと美しくなまめかしい。情慾に光りかがやいている。青年は、あの美しい女に呑まれたいと思った。鯨に呑まれるように、腹の中へ呑まれたいと思った。
 本当をいうと、彼は少年時代から、この幻想に憑かれていた。夢にもよく見た。中学校の集団旅行で、奈良の大仏を見たときには、恍惚として目がくらみそうになった。鎌倉の大仏はもっと実感的であった。あの体内へはいった時の気持が忘れられないで、ただそれだけのために、三度も四度も鎌倉へ行ったほどだ。あの中に住んでいられたら、どんなによかろうと思った。
「いよいよ、おれもせっぱつまったなあ。自殺する時が来たのかな」
 青山浩一は、絶えず心の隅にあったことを、口に出して云って見た。彼には、温泉めぐりをしているあいだも、この金を遣いはたしたら自殺だという想念が常にあった。その想念には何か甘い味があった。
 じっと前の海を見つめていたが、飛び込む気には、なれなかった。いよいよのどたんばまでには、まだ少しあいだがあると思った。その一寸のばしが、目覚し時計の音をきいてから、蒲団の中にもぐっているように、何とも云えず物憂く、ここちよかった。
 もう海と空の見さかいがつかぬほど、暗くなっていた。汽船たちのマストの上の燈火が、キラキラと美しくきらめき出した。「ひとりぼっちだなあ……」たまらない孤独であった。今朝上野駅について、浅草と有楽町で、映画を二つ見た。映画館の群衆は、自分とは全く違った別世界の生きもののように見えた。それから、銀座通りを、京橋から新橋まで、三度ほど行ったり来たりした。じっとしていられなかったからだ。そこを通っている人達も、まるで異国人であった。
 少し寒くなって来た。秋だ。落葉の期節に近づい…

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