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白い雌鷄の行方
しろいめんどりのゆくえ
作品ID602
著者水野 仙子
文字遣い旧字旧仮名
底本 「叢書『青踏』の女たち 第10巻『水野仙子集』」 不二出版
1986(昭和61)年4月25日復刻版第1刷
入力者小林徹
校正者柳沢成雄
公開 / 更新2000-02-22 / 2014-09-17
長さの目安約 16 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

        一

 年老いた父と母と小娘二人との寂しいくらし――それは私が十二の頃の思出に先づ浮んで來る家庭の姿であつた。總領の兄は笈を負うて都に出てゐるし、やむなく上の姉に迎へた養子は、まだ主人からの暇が出ないで、姉と共に隣町のお店に勤めてゐた。町でも繁華な場所に家屋敷はあつたけれど、軒並に賑つてゐる呉服屋や小間物店の間にあつて、私の家ばかりは廣い間口に寂しく蔀が下されてあつた。
 年に一度、少しばかりの米俵を積んだ荷馬車がどこからか來て庭先にとまる。そして馬子がそれを一俵づつ背中に負うて、内庭を通つて倉に運んで行く。私はもの珍しくその後について行つてみると、母は上つぱりを着て手拭を冠つて、もう一人の男と馬子とが擔ぎあげる天秤棒を通した秤の目を取つてゐる。母のうわつぱりの横の方が、糠か何かで白くなつてゐる。時々俵をこぢあけて、一つまみ米をつまみ上げて手の平で吟味する――さうした大人のしぐさを感心して見てゐる私の足許に、ふと「こゝこゝこ、こゝこゝ。」といふ元氣のいゝ鷄の聲がする。奴さん達もう落米を見付けてそれをひろひにやつて來たのだ。
 あゝ、今でもその薄暗い倉の中に動いてゐる母の手拭を冠つた姿と、あのまつ白な雌鷄のちよつぴり傾いた鷄冠とが見えるやうな氣がする。そしてその二つのものが、何といふ女性らしい――否、いふ事が出來れば母性らしさを、共通に私の記臆にとゞめてゐる事であらう。
 私の家で鷄を飼つてゐたのは、後にも先にもその頃が初めてゞあつた。何でもそれは、總ての生物が好きだつた私が、犬を飼つてくれ犬を飼つてくれとせがんだのがはじまりだつたと思ふ。父が實利的な頭から割り出して、犬は大飼を喰ふばかりで何の役にも立たない、猫はそれでも鼠を捕るといふ仕事があるが、犬ばかりは人間に直接な役目をしないといふのがその持論なのであつた。ところで、猫は私達姉妹が大好きなのだけれど、幾ら飼つてもどうしても私の家には育たないのであつた。病氣になつて死ぬか、でなければ車に轢かれる、或はゐなくなつてしまふといふ風に、どうしても大きくならないうちにみんなどうかなつてしまふのであつた。寅年生の者がゐる家には猫が育たないといふ話があるけれど、姉はちようどその寅年生なのであつた。で、猫も駄目なので、犬のかはりに鷄が飼はれたわけであつた。鷄なら玉子を生むからといふのである。
 かうして飼はれるやうになつた鷄が、どこからどうして手に入つたのかなぞは、全然私の記臆にない。私はたゞ珍しくつて嬉しくつて、そして何故ともなく、かすかに得意だつた氣持を覺えてゐる。最初の日は、どこかに行つてしまふのを恐れて、裏庭に出して背負籠をかぶせて置いた。(勿論金網の[#「金網の」は底本では「金綱の」]用意などはなかつたし、作らうともしなかつた。)そしてその前に屈んで、私は飽かず彼等に眺め入つた。
 純粹の矮鷄…

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