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遥かな旅
はるかなたび
著者原 民喜
文字遣い新字新仮名
底本 「原民喜戦後全小説」 講談社文芸文庫、講談社
2015(平成27)年6月10日
初出「女性改造」改造社、1951(昭和26)年2月
入力者竹井真
校正者栃山俊太郎
公開 / 更新2020-09-28 / 2020-08-28
長さの目安約 14 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 夕方の外食時間が近づくと、彼は部屋を出て、九段下の爼橋から溝川に添い雉子橋の方へ歩いて行く。着古したスプリング・コートのポケットに両手を突込んだまま、ゆっくり自分の靴音を数えながら、
汝ノ路ヲ歩ケ
 と心に呟きつづける。だが、どうかすると、彼はまだ自分が何処にいるのか、今が何時なのか分らないぐらい茫然としてしまうことがある。神田の知人が所有している建物の事務室につづく一室に、彼が身を置くようになってから、もう一年になるのだが、どうかすると、そこに身を置いて棲んでいるということが、しっくりと彼の眼に這入らなかった。どこか心の裏側で、ただ涯てしない旅をつづけているような気持だった。……夜の交叉点の安全地帯で電車を待っていると、冷たい風が頬に吹きつけてくる。街の灯は春らしく潤んでいて、電車は藍色の空間と過去の時間を潜り抜けて、彼が昔住んでいた昔の街角とか、妻と一緒に歩いていた夜の街へ、訳もなく到着しそうな気がする。

 彼は妻と死別れると、これからさきどうして生きて行けるのか、殆ど見当がつかなかった。とにかく、出来るだけ生活は簡素に、気持は純一に……と茫然としたなかで思い耽けるだけだった。棲みなれた千葉の借家を畳むと、彼は広島の兄の家に寄寓することにした。その時、運送屋に作らせた家財道具の荷は七十箇あまりあった。郷里の家に持って戻ると、それらは殆ど縄も解かれず、土蔵のなかに積重ねてあった。その土蔵には妻の長持や、嫁入の際持って来たまま一度も使用しなかった品物もあった。それらが、八月六日の朝、原子爆弾で全焼したのだった。田舎へ疎開させておいた品物は、荷造の数にして五箇だった。
 妻と死別れてから彼は、妻あてに手記を書きつづけていた。彼にとって妻は最後まで一番気のおけない話相手だったので、死別れてからも、話しつづける気持は絶えず続いた。妻の葬いのことや、千葉から広島へ引あげる時のこまごました情況や、慌しく変ってゆく周囲のことを、丹念にノートに書きつづけているうちに、あの惨劇の日とめぐりあったのだった。生き残った彼は八幡村というところへ、次兄の家族と一緒に身を置いていた。恐しい記憶や惨めな重傷者の姿は、まだ日毎目の前にあった。そのうち妻の一周忌がやって来た。豪雨のあがった朝であった。秋らしい陽ざしで洗い清められるような朝だった。彼は村はずれにあるお寺の古畳の上に、ただ一人で坐っていた。側の火鉢に煙草の吸殻が一杯あるのが、煙草に不自由している彼の目にとまった。がらんとした仏前に、お坊さんが出て来て、一人でお経をあげてくれた。
 妻が危篤に陥る数時間前のことだった。彼は妻の枕頭で注射器をとりだして、アンプルを截ろうとしたが、いつも使う鑢がふと見あたらなくなった。彼がうろたえて、ぼんやりしていると、寝床からじっとそれを眺めていた妻は、『そこにあるのに』と目ざとくそれを見つけ…

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