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寡婦とその子
かふとそのこ
作品ID60225
著者アーヴィング ワシントン
翻訳者吉田 甲子太郎
文字遣い新字新仮名
底本 「スケッチ・ブック」 新潮文庫、新潮社
1957(昭和32)年5月20日
入力者砂場清隆
校正者noriko saito
公開 / 更新2021-10-16 / 2021-09-27
長さの目安約 15 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

年老いた人をいたわりなさい。その銀髪は、
名誉と尊敬をつねに集めてきたのです。
――マーロウ作「タムバレーン」

 わたしは田舎に住んでいるころ、村の古い教会によく行ったものだ。ほの暗い通路、崩れかかった石碑、黒ずんだ樫の羽目板、過ぎさった年月の憂鬱をこめて、すべてが神々しく、厳粛な瞑想にふける場所ににつかわしい。田園の日曜日は浄らかに静かである。黙然として静寂が自然の表面にひろがり、日ごろは休むことのない心も静められ、生れながらの宗教心が静かに心のなかに湧きあがってくるのを覚える。

かぐわしい日、清らかな、静かな、かがやかしい日、
天と地の婚礼の日。

 わたしは、信心深い人間であるとは言えない。しかし、田舎の教会にはいると、自然の美しい静寂のなかで、何かほかのところでは経験することのできない感情が迫ってくるのである。そして、日曜日には、一週間のほかの日よりも、たとえ宗教的にはならないとしても、善人になったような気がするのだ。
 ところが、この教会では、いつでも現世的な思いにおしかえされるような感じがしたが、それは、冷淡で尊大なあわれな蛆虫どもがわたしのまわりにいたからだ。ただひとり、真のキリスト教信者らしい敬虔な信仰にひたすら身をまかせていたのは、あわれなよぼよぼの老婆であった。彼女は寄る年波と病とのために腰も曲がっていたが、どことなく赤貧に苦しんでいる人とは思われない面影を宿していた。上品な誇りがその物腰にただよっていた。着ているものは見るからに粗末だったが、きれいでさっぱりしていた。それに、わずかながら、ひとびとは彼女に尊敬をはらっていた。彼女は貧しい村人たちといっしょに席をとらず、ひとり祭壇のきざはしに坐っていたのである。彼女はすでに愛する人とも、友だちとも死に別れ、村人たちにも先立たれ、今はただ天国へゆく望みしか残されていないようにみえた。彼女は弱々しく立ちあがり、年とった体をこごめて祈りを捧げ、絶えず祈祷書を読んでいたが、その手はしびれ、眼はおとろえて、読むことはできず、あきらかに誦んじているのだった。それを見ると、わたしは、その老婆の口ごもる声は、僧の唱和や、オルガンの音や、合唱隊の歌声よりもずっとさきに天にとどくのだと強く思わざるを得なかった。
 わたしは好んで田舎の教会のあたりをあちこち歩いたものだが、この教会はたいへん気もちのよい場所にあるので、わたしはよくそこにひきつけられていったものだ。それは丘の上にあり、その丘をめぐって小川が美しく彎曲し、そしてくねくねとうねりながら、ひろびろとした柔かい牧場を流れてゆく。教会の周囲には水松の木が茂っているが、その木は教会とおなじくらい年数をへているようだった。教会の高いゴシック式の尖塔はこの木のうえにすっくりと聳えたち、いつも深山烏や烏がそのあたりを舞っていた。ある静かなうららかな朝、わたしは…

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