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土塊石片録
つちくれせきへんろく |
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作品ID | 60242 |
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著者 | 伊波 普猷 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「古琉球」 岩波文庫、岩波書店 2000(平成12)年12月15日 |
初出 | 「琉球新報」1908(明治41)年9月 |
入力者 | 砂場清隆 |
校正者 | かたこ |
公開 / 更新 | 2021-03-15 / 2021-02-26 |
長さの目安 | 約 9 ページ(500字/頁で計算) |
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上
私はかつて記紀万葉などにある七世紀前の大和言葉が今なお琉球諸島に遺っているという事を例に引いて、九州の東南岸にいた海人部の一氏族が、紀元前に奄美大島を経て沖縄島に来たという事を言語学上から証明したことがある。また七世紀の頃、南島人が始めて大和の朝廷に来貢した時分訳語を設けて相互の意を通じたということが国史に見えているから、分離後六、七百年も経ったために、大和言葉と沖縄言葉との間にはよほどの差異が生じたのであろうと言ったこともある。その後、沖縄の古語や諸方言を研究するに及んで、その中に『東鑑』にあるような鎌倉以前の言葉の多く這入っているのに気が付き、もしや日本本土と沖縄との交通が鎌倉時代に至って一入頻繁になっていたのではなかろうかと思って首をひねって見たが、これぞという証拠が見つからなかった。ある日『おもろさうし』の十の巻「ありきゑとのおもろさうし」(旅行の歌の双紙の義)を繙いていると、ふと「ねいしまいしがふし」というオモロが目についた。
いしけした、よう、がほう
よせつける、とまり
かねし、かね、どのよ
いしへつは、こので
かなへつは、こので
いしけ、より、なおちへ
なだら、より、なおちへ
くすぬきは、こので
やまと、ふね、こので
やまと、たび、のぼて
やしろ、たび、のぼて
かはら、かいに、のぼて
てもち、かいに、のぼて
おもいぐわのためす
わりがねが、ためす 〔十―二八〕
その意味は「伊敷下は豊年を招く港ぞ、兼次の貴き君よ、君がいさほにて、石槌を造り、金槌を造りて、伊敷を修理し、ナタラを築港しぬ、かくて楠船を造り、大和船を造りて、大和の旅に上り、山城の旅に上りぬ、瓦を買はんとて、品物を買はんとて、愛児のためにこそ、わりがねがためにこそ」ということである。これで研究の端緒は開けたような気がした。島尻の真壁村の伊敷の城主が大和へ瓦その他の品物を買いにやったとあるから、古くは沖縄では瓦を買うために遥々日本本土まで出かけたということがわかった。もし何処かでこの瓦の遺物が見つかったら、恐らくあの疑問は解けることと早合点をして、それから時々古城址などを跋渉して内地風の瓦を探して見たが、無益であった。昨年の夏、東恩納〔寛惇〕君が帰省したので、二人で琉球語の金石文を読みに浦添の古城址を訪ずれたが、思いがけずも灰色の瓦の破片が其処此処にころがっているのを見た。取り上げて見ると、ちょっとした模様がついて、外に「癸酉年高麗瓦匠造」と書いてある。この時、私はあのオモロを思い出さずにはおれなかった。そこでその事を東恩納君に打明けて、品のよい瓦片を一つ二つ持って帰った。しかしその道の人でなければもとより鑑定が出来るはずはない。ただ東恩納君が上京したら、専門家に鑑定してもらうより外に道がないと思った。今年の夏、東恩納君が大学を卒業して帰った日、早速あの瓦の事を尋ねると、専門家…