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作品ID60287
著者有島 武郎
文字遣い旧字旧仮名
底本 「有島武郎全集第七卷」 筑摩書房
1980(昭和55)年4月20日
初出「新小説 第二十四年第四號」1919(大正8)年4月1日
入力者きりんの手紙
校正者木村杏実
公開 / 更新2022-03-04 / 2022-02-25
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 春になると北海道の春を思ふ。私は如何いふものか春が嫌ひだ。それは感情的にさうだと云ふよりも寧ろ生理的にさうなのだらう。若い女の人などが、すつかり上氣せ上つて、頬を眞赤にして、眼までうるませてゐるのを見たりすると、籠り切つたやうな重苦しい春の重壓が私の精神をまで襲つて來る。醗酵し切らない濁酒のやうな不純な、鈍重な、齒切れの惡い悒鬱が何所からともなく私の心と肉とをさいなんでかゝる。あの重く、暖かく、朧ろな靄――あれが私の頭にも漲り滿ちる。
 然し春の囘想は惡いものではない。それは直接私の肉體に働きかけて來ないからだらう。靜かな心で自然が活動に目覺めて行く樣子を想像するのは快い。春になると私は北海道の春を思ふ。
 雪國の生活は單調だと人は云ふやうだ。然しそれは間違つてゐる。雪に埋み盡された地面――そこには黒ずんだ常盤木の外に緑といふ色の夢にもない――が見る/\黒土に變り、黒土が見る/\若草の野に變つて行くあの華々しい變化は、雪國に越年しない人の想像する事が出來ない所だらう。
 冬が北國を訪れて、眼に見る限りのものを悒鬱な黒と白とに變へてしまつてから四ヶ月が經つ。人の心は寒さに閉され、虐げられ、苦しめられて危く石のやうになつてしまはうとする。道の上で行き遇ふ人も碌々顏を擧げて眼を見交はさうとはしないまでに活動力を極度まで縮めてしまふ。人は我慢の極點に足爪立つてゐる。その頃になつてやつと冬が退き始める。私の友が巧みにも老雪と云つたその雪の姿が日の光の下にさらけ出される。今まではみづ/\しくふうわりと眞白に降りたまつてゐたものが、知らぬ間に溶け固つて、不溶解性の煤だの芥だの紙屑だのが、がぢ/\とさゝくれだつた雪の表面に現はれ出る。晝間になつて日が照り出すと、人の往來する所だけはどろ/\に雪解がして、泥炭地の水のやうな黒褐色の水が盤に踏み固められた雪路の上を逃げ所もなく漂ひ[#挿絵]る。雪鞋をはいて歩く男のその濡れた藁は重さうにぐつしより濡れて、凍傷を防ぐための赤毛布の脚絆は水を吸ひ飽きたスポンヂのやうに水氣でふくらむ。ぴちやり/\と汚ないはねを肩のあたりまで上げながらその人達は歩いて行く。
 低く空に懸つて容易に動かない綿雲が少し輕く動き始める。時には端なくもその古綿のやうな雲が破れて青空を見せる。その青空は冬の眞中に見慣れたやうな青空ではない。それは鼠幕の下された間に、舞臺裏で衣裳を着かへて幕の開くのを待つてゐたやうな青空だ。同じ青の色ではあるが同じ青さではない。眼で區別が出來ないだけそれだけ感じに於て違つてゐる。冬の四ヶ月間太陽の熱を、地面に達しない中にせつせと吸ひ取つておいて、それをそろ/\地面に向つて放射し始めるやうな色をしてゐる。冬の青空を見上げると人は一倍寒さを感ずる。今見る青空からは暖味がしめやかに傳つて來る。
 さうかと思ふと空は又未練らしく綿雲で閉さ…

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