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原民喜君を推す
はらたみきくんをおす
作品ID60325
著者佐藤 春夫
文字遣い旧字旧仮名
底本 「三田文學 第二十三卷 第一号」 三田文學會
1949(昭和24)年1月1日
初出「三田文學 第二十三卷 第一号」三田文學會、1949(昭和24)年1月1日
入力者竹井真
校正者藤保弥
公開 / 更新2021-03-13 / 2021-02-26
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 數年前から漠然とこの頃の三田文學には人材が集つてゐるやうな氣がしてゐた。戰爭中で外の雜誌に文學の色彩が薄れてゐる時に、これがあまり時勢に追從せずにゐたためかと思ふ。終戰後山の中から文壇といふものを遠く見てゐると、だいぶんいろいろの新人が出て文壇の樣相が新らしくなつて行くのがよく判つた。さて三田の人々をこれ等の文壇と見くらべると、みなそれぞれの特色がありながら文壇の新人といふものと違つてゐるものを自分は面白く思つた。文壇といふものに關係なく自分たちの文學を書いてゐるふうに見えるのである。或はとり殘されてゐるといふのかも知れない。文壇にとり殘されても文學に置き忘れられさへしなければ一向かまはない。恐ろしいのはその逆の場合であらう。三田の人々は、しかしその心配はない。彼等は文壇にはとり殘されながらにも文學だけは忘れてゐないやうな頼もしさを感じて文壇にとり殘されてゐるおかげでせめて文學だけはといふ氣持になつてゐるのかも知れないが、何にしても好もしい現象と思つて見てゐた。
 そのうちに水上瀧太郎賞といふものが出來たのは、どういふ目的なのだか。或は文壇の郊外にゐる三田の人々に盛裝をさせて文壇の混雜のなかへ送り入れようといふのかとも思ふが、よく知らつい[#「知らつい」はママ]。しかし自分としては文壇ずれのしない三田の人々の持つてゐる氣風を文壇に送る事は文壇に新風を吹き入れる事を目的とすべきで、三田の人材を文壇的にする目的であつてはいけないやうな氣がする。これは自分だけの考へであるが自分としてはその考へに立脚してこの文學賞の候補者を物色する外に致し方も無いわけであつた。
 受賞候補者の作品を幾つか讀んでみて、自分は近年の三田には人材がゐるといふ年來の自分の漠然たる見方の大して誤つてゐなかつた事をはつきりと見た。なかなか書ける人が二三ならずゐる。それが必ずしも時代には沒交渉ではなく相當な文學になつてゐながら文壇とは縁の遠いところのあるのも自分には頼もしく思へた。それ等の幾人かの間から自分が特に原民喜をひとり選ばうとしたのは、どういふ理由か。
 實は自分は十年あまり前であつたと思ふ坪田讓治君の紹介で原君の來訪を一二度受けて君とは面識がある。他の見も知らぬ人々の間に一人の知り人がゐるといふ事が特に自分をして原君に注目させてゐるといふ事實はあらう。現に自分は原君の作品は候補になる以前から一つ殘らず注意して讀んでゐた。人を知つてゐるといふ事は作品を味ふに便利の多いものであり、作品に親しみを感じさせるものである。だから自分は他の作者のものと讀み比べる場合にはいつもこの事實を念頭に置いて不公平に陷らないやうにといふ注意はしたつもりである。さうして十分冷靜に見たうへで、他の候補者の作品と對比しても、原君の作品が最も個性的であり、最も完成の域に近いものだといふ安心を持つてこれを推擧し得ると…

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