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木犀の花
もくせいのはな
作品ID60350
著者永井 荷風
文字遣い新字新仮名
底本 「葛飾土産」 中公文庫、中央公論新社
2019(平成31)年3月25日
初出「中央公論 第六十二年第十号」中央公論社、1947(昭和22)年10月1日
入力者きりんの手紙
校正者
公開 / 更新2024-04-30 / 2024-04-24
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 木犀の花がさくのは中秋十五夜の月を見るころである。
 甘いような、なつかしいような、そして又身に沁むような淋しい心持のする匂いである。
 わたくしはこの花の香をかぐと、今だに尋常中学校を卒業したころの事を思出す。
 わたくしの学んだ中学校はわたくしの卒業する前の年まで神田一ツ橋に在った。道路を隔てて高等商業学校の裏手に面していた。維新前には護持院ヶ原と言われたところで、商業学校の構内には昔を思わせる松の大木がところどころに立っていた。
 わたくしがこの中学校に入って、黒い毛糸の総をつけた三角形の制帽をかぶり、小石川の家から通学しはじめたのは、後年まで人の記憶している神田の大火事のあった頃である。年代ははっきり覚えていないが、帝国議会が創設されてから二三年たった頃であろう。わたくしは神田錦町に在った私立英語学校から転校したのである。在学中、一度は数学ができなかった為、一度は病気で長く休んでいた為落第した。その後どうやら最上級に進んだ年の春、わたくしの中学はお茶ノ水に在った其本校なる高等師範学校の構内に移った。孔子を祀った大成殿と隣接したあたりに木犀の古木が多く茂っていたのである。
 初に通った一ツ橋の旧校舎はもと体操練習場と称して、米国風の体操教師を養成する処であったそうである。師範学校附属の中学校になってから、大祭日や何かの時、われわれ全校の生徒が集合することになっていた広大な講堂は、体操練習場の在った頃の雨中体操場をそのまま修繕したものだと云う話であった。あまりに広過るので、平日は幾枚かの衝立で仕切られて、一方は食堂、一方は唱歌の教室、また別に倫理の教室に当てられていた。わたくしは此処で儒者南摩羽峯先生の論語講義を聴いた。羽峯先生は維新前には会津の藩儒として知られていた学者である。衝立を隔てた唱歌の教室では、後年東洋音楽学校を創立された鈴木米次郎先生から楽譜をよむ事を教えられた。今日世に流布している「四百余州を挙る」とかいう元寇の歌は、その頃鈴木先生が洋楽の原譜から作り替えられたものだと云う事で、われわれは印刷された曲譜を買った。
 わたくしが病気の為再度落第をした頃、羽峯先生の論語講義は廃せられ、その教室には突然畳が敷詰められて柔道の練習場にされてしまった。中学生に柔道を習わせるようになったのは恐らく此時が始めであろう。これには理由があった。
 われわれの中学は後年文理科大学と改称された高等師範学校の附属であって、久しく本校師範学校の校長であった高峰先生が引退されて、新に嘉納先生という柔術家が熊本の高等中学校長から転任して来られた。初てその挨拶のある日、われわれ全校の生徒は各級受持の教師に引率せられて講堂に集ったのであるが、見れば、その時新任の校長は今までわれわれがこういう時いつも式場で見馴れたフロックコートの洋装ではなく、黒羽二重か何かの紋服に袴をは…

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