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明治詩壇の回顧
めいじしだんのかいこ |
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作品ID | 60352 |
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著者 | 三木 露風 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「三木露風全集 第3巻」 日本図書センター 1974(昭和49)年4月20日 |
初出 | 「文章世界 八巻一号」1913(大正2)年1月1日 |
入力者 | きりんの手紙 |
校正者 | hitsuji |
公開 / 更新 | 2022-12-29 / 2022-11-26 |
長さの目安 | 約 15 ページ(500字/頁で計算) |
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過ぎ去つた詩を回顧するのは、灰の中に宝玉を拾ふやうなものだ。併し幾たびとなく変遷して来たその中に、我々の胸に忘れ難い感銘を遺したものが尠くない[#「尠くない」は底本では「勘くない」]。時とすると二三人の人の集つたところに興味ある批評を聴くことがある。僕は斯ういふ人達が各[#挿絵]愛読の詩集の一つや二つ必ず持つて居たことを懐しく感ずるのである。
今では古く出た詩集は、次第に世間から影を失つてゆく。明治の詩といふものもさう新しいものではなくなつた。梅花道人の『梅花詩集』をどうかして手に入れたいと思つて古本を漁つたけれども無い。心当りの文壇の人にも聴いたが矢張駄目であつた。詩集は小説なぞと異つて僅かしか部数を刷らないから古い物は殊更影を絶つてしまふのである。若し然ういふのが手に入れば大分渋いものだ。『蓬莱曲』は透谷全集には入つて居るが、併し初版の原本は却々見つからない。
因襲を破つて新しい道に就くといふことは過去に於ても屡[#挿絵]繰返されて居る。兎に角今日は新しい或物を生まうとする時代である。この時代が来るまでにどれほどの種子が播かれたであらうか。僕が初めて詩を書きだした時分は、既に新体詩の歴史は余程進歩して居る時であつた。今振返つて其以前のことを見るとさま/″\な[#「さま/″\な」は底本では「さまざまな」]詩集が出て居る。さま/″\な論議が行はれて居る。鴎外先生や石橋忍月氏の幽玄に関する争論なぞは、今でも興味を感ぜざるを得ない。国民之友や文学界同人の詩作は措て、僕等の少年の頃愛誦した『抒情詩』や『風月万象』『山高水長』といふ風な物が、続いて頭の中に呼び起される。
何の詩集に入つて居たか覚えぬが、独歩氏の『祈り』と云ふ一篇はヒドク僕を動かしたものだ。独歩氏の作には敬愛すべきシンプリシチーが有る。たとへ其声は深くはなくとも純一な、ウソでないところがある。『山林に自由存す』から見ると『鎌倉懐古』の方は形式も詩想も円熟して居た。併し氏の善いところは矢張破格と単純とにあつた。詩壇の人ではなかつたが、与謝野氏の匠気に富んだ作なぞから見れば、たしかに善い気持がする。
それから雨江、羽衣、桂月諸氏の擬古的な詩は、教科書の中で読まるべきものであつた。実際僕は又其れを学んだ。教科書で学んだことを云へば、其頃大和田建樹氏の作も多かつた。氏が二十六七年に出された『欧米名家詩集』を此頃古本で買つたが、この二十年前の珍本には、僕等が尊敬するブレヱクは、ロングフヱローと肩を並べてをつた。
ある日、僕が田舎の本屋へ行くと、そこの主人が、頻に善い本だと云つて、東京から著いたばかりの一冊の書物を差出した。其時僕は小学校の生徒で、鞄を懸けて居た。主人が云ふには近頃死んた[#「死んた」はママ]有名な詩人の遺稿で、又この本を拵へた人は、その友人の豪い文学者ばかりだとのことだ。僕はそれを聞…