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イエス伝
イエスでん |
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作品ID | 60358 |
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副題 | マルコ伝による マルコでんによる |
著者 | 矢内原 忠雄 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「イエス伝 マルコ伝による」 角川文庫、角川書店 1999(平成11)年8月25日 |
初出 | 「イエス伝講話」嘉信文庫、嘉信社、1940(昭和15)年6月 |
入力者 | kompass |
校正者 | officeshema |
公開 / 更新 | 2022-12-25 / 2022-11-26 |
長さの目安 | 約 444 ページ(500字/頁で計算) |
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序
終戦後キリスト教に対する日本人の関心はいくらか増してきたが、それでもまだ十分とは言えない。いわんや戦争前および戦争中において、キリスト教に対する日本人の態度は無知と傲慢と冷淡と偏見に満ち、「キリスト教は日本の国体に合わぬ」という一言の下に、時には軽く無視せられ、時には激しき弾圧をこうむった。たしかに日本を戦争と敗戦に導いた大きい原因の一つは、明治維新以来八十年の間の長きにわたり、政府と国民がキリスト教に対して取った無理解・傲慢の態度にあったと言うことができる。
いまや時代は一変し、日本人がキリスト教の知識と信仰を養うべき必要はますます大となった。これによって日本国民は真に民主主義的な、平和愛好国民として新たに生まれ変わることができるのであり、またこの混迷せる虚無的な時勢にありて、各自が絶望より救われ、自由と希望の「生きる道」を見いだすことができるのである。
キリスト教を知る道は、聖書を学ぶにしくはない。キリスト教の信仰を養うためには、百の説教、千の神学にまさりて、聖書の研究が重んぜられなければならない。聖書の真理を離れてキリスト教はないのである。キリスト教が日本および日本人の救いの基礎となるためには、何よりもまず聖書を日本人の書となさねばならない。
私は少数の青年たちを相手に、聖書の講義を続けることすでに十五年、昭和十三年一月からは『嘉信』と題する聖書研究の個人雑誌を出している。この『嘉信』の創刊は、前年十二月私が東京帝国大学教授の職を辞した結果であったが、その前後の嵐の中で私は新約聖書のマルコ伝の講義を続けた。それは日華事変の起こった直後であって、キリスト教の信仰と平和思想に対し政府と国民のとった、あの狂気じみた迫害・誹謗のまっただ中においてであった。その中にありて、私はこの講義によって、サタンの跳梁に対して真理を擁護し、キリストを信ずる者が迫害を怖れて世と妥協することなく、信仰の純粋性を維持すべきことを勧めたのであった。
私は右の講義を集め、『イエス伝講話』と題し、嘉信文庫第一冊として、昭和十五年六月に自費出版した。その後再刊を希望する声が絶えなかったが、今般角川書店からの交渉に応じ、新装して再び世におくることとしたのである。新約聖書には、四とおりのイエス伝がある。マタイの伝えたもの、マルコの伝えたもの、ルカの伝えたもの、およびヨハネの伝えたもの、これである。本書はこのうち主としてマルコ伝(詳しく言えば「マルコの伝えた福音書」)によったものであるから、その実質はマルコ伝講義である。読者はマルコ伝を開き、その本文を読みながら、この講義を参照せられたい。
私は専攻の聖書学者ではなく、また神学校出身者でもない。私はただ一介の平信徒である。ゆえに私は神学者のごとく語らず、牧師のごとくに説教しない。私はただ一人の人間として、私の信ずることのでき…