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虫の声
むしのこえ |
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作品ID | 60385 |
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著者 | 永井 荷風 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「21世紀の日本人へ 永井荷風」 晶文社 1999(平成11)年 1月30日 |
初出 | 「中央公論 第五十一年第六號」1936(昭和11)年6月 |
入力者 | 入江幹夫 |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2022-08-19 / 2022-07-27 |
長さの目安 | 約 8 ページ(500字/頁で計算) |
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東京の町に生れて、そして幾十年という長い月日をここに送った……。
今日まで日々の生活について、何のめずらしさをも懐しさをも感じさせなかった物の音や物の色が、月日の過ぎゆくうちにいつともなく一ツ一ツ消去って、ついに二度とふたたび見ることも聞くこともできないということが、はっきり意識せられる時が来る。すると、ここに初めて綿々として尽きない情緒が湧起って来る――別れて後むかしの恋を思返すような心持である。
ふけそめる夏の夜に橋板を踏む下駄の音。油紙で張った雨傘に門の時雨のはらはらと降りかかる響。夕月をかすめて啼過る雁の声。短夜の夢にふと聞く時鳥の声。雨の夕方渡場の船を呼ぶ人の声。夜網を投込む水音。荷船の舵の響。それらの音響とそれに伴う情景とが吾々の記憶から跡方もなく消え去ってから、歳月はすでに何十年過ぎているであろう。
季節のかわり行くごとに、その季節に必要な品物を売りに来た行商人の声が、東京というこの都会の生活に固有の情趣を帯びさせたのも、今は老朽ちた人々の語草に残されているばかりである。
時代は過ぎ思想は代り風俗は一変してしまった今日、この都会に生れ、この都会に老行くものどもが、これから先、その死に至る時まで、むかしに変らぬ情趣を味い得るものをさがし求めたなら、果して能く何を得るのであろう。
樹木の多い郊外の庭にも、鶯はもう稀に来て鳴くのみである。雀の軒近く囀るのを喧しく思うような日も一日一日と少くなって行くではないか。わたくしは何のために突然こんな事を書きはじめたのか。それは梵鐘の声さえ二三年前から聞き得なくなった事を、ふと思返して、一年は一年よりさらに烈しく、わたくしは蝉と[#挿絵]の庭に鳴くのを待詫るようになった。――何故に待ちわびるようになったか、その理由をここに言いたいと思ったからである。昭和という年も数えて早くも十八年になった今日、東京の生活からむかしのままなる懐しい音響を、われわれの耳に伝えてくれるものは、かのオシイツクツクと蝉の鳴く声ばかりであろう。蝉も[#挿絵]も、事によっては雁や時鳥と同じように、やがて遠からず前の世の形見になってしまうのかも知れない。
ある年浅草公園のある劇場の稽古に夜を明しての帰りみち、わたくしは昨夜のままに寝静まった仲店を歩み過ぎた時、敷石を踏む跫音さえ打消すほど、あたり一面に鳴きしきる[#挿絵]の声をきいて、路におちた宝石を拾ったよりも嬉しく思ったことがあった。それも数えればもう七八年むかしである。
毎年東京の町に秋のおとずれるのは八月の七八日頃である。今年もいよいよ秋になったと知るが否や、わたくしは今日か明日かと、夜毎に[#挿絵]の初音を待つのが例である。しかしこの年頃の経験によると、[#挿絵]の声の人の耳に達するのは、夕日の梢に初めてオシイツクツクの声をきいてから、遅い時には十日十五日くらい待たね…