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歓楽
かんらく
作品ID60405
著者永井 荷風 / 永井 壮吉
文字遣い旧字旧仮名
底本 「荷風全集第四卷」 岩波書店
1964(昭和39)年8月12日
初出「新小説 第十四年第七卷」春陽堂、1909(明治42)年7月1日
入力者入江幹夫
校正者きりんの手紙
公開 / 更新2022-12-03 / 2022-11-26
長さの目安約 52 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 ………人は幾度も戀する事が出來るだらうか。唯た一度しか出來ないと、女性は必ず云ひ張るに違ひない。男でも古臭いロマンチツクな夢から覺めないものは、矢張り同じやうな事を云ふかも知れない。誰でも戀に熱してゐる最中にはそれが生涯の戀の最初最終であるらしく感ずるのは當然の事で。もし其の戀に成功してしまつた後、一生涯それ以上熱烈な感激を覺えずにしまつたなら、我輩はさう云ふ人達を幸福だと羨むばかりで、折角その人の實驗から得た斷定を否定しやうとは思はない。つまり、運命が其の人にはさう云ふ戀の斷定をさせるやうに、さう云ふ戀の經驗を與へたのだから。その代り、我輩も自分の經驗から得た自分の斷定を、他人の經驗一圖で否定して貰ひたくない。二十世紀は紛亂の時代だ、經驗から自己が感じたものより外に眞理はない。君達は富豪の兒に向つて、あなたは盜みをしなかつたから一代の道徳家であると褒める必要を認めまい。只だ富豪の兒は盜みする程貧しくなかつた。盜みする必要にも機會にも出會はなかつたと云ふ事實を認識して單純に幸福な人だと思へば充分であらう。我輩は一度しか戀しなかつた人を單純に幸福だと云ふばかりだ。
 こんな議論を聞きながら、四月も末の晴れた晝過ぎ、私は文壇の先輩なる小説の大家○○○○氏と日比谷公園の若葉の小徑を散歩した。年頃はもう四十歳を越して、學者や詩人にのみ見らるべき思想生活の成熟期を示す沈痛な面の表情が、うつとりして疲れたやうな眼の色に和げられて、云ふにいはれず優しく又懷しく見える。血色のよい額にはまだ皺一ツなく其の上に長く垂らした髮の毛は眞黒であるが、風のたび/\木の葉を漏れる強い日光に照らされて、其の濃い口髯には早や數へられぬほどの白髮が銀の絲の如く輝くのが目に立つ。私は日頃懇意にしてゐながら、この瞬間までは少しもその髯の白さには氣がつかなかつたので、久しく幽婉な筆致と熱烈な情緒を以て吾々の若い血を躍らせた詩人も、已にこのやうに老いたる人であつたのかと、突然一種の悲哀と不安を覺えて、何とはなしに其の顏を眺めながら、訊くともなく、
「先生、それぢや先生は今日までに何度ほど戀を經驗されたんです。」と訊いて見た。
 先生は極めて沈着いた調子で、「丁度十年前―――今年四十二だから、丁度三十二の時の事件が、僕の生涯には三度目の戀だつた。今から考へると、あの出來事が僕の青春の歴史の末段を告げたもので、其の以後は其の以前とは全く色調を異にした時代が始つた。僕は十代、二十代、三十代とつまり三度戀した。三度目が僕の生涯の最終の戀であつたと思ふ。」
「然し、先生。さう一概に斷定してしまふ事は出來ますまい。更に新しい何物かに打れるまでは、いつでも最終らしく感じられるのが戀の常でせう。先生もさう云はれたぢやないですか。」
「それアさう云つた。斷言する事は無論出來ないが、まア、君の目撃する現實の僕を觀…

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