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曲者
くせもの |
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作品ID | 60443 |
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著者 | 原 民喜 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「原民喜戦後全小説」 講談社文芸文庫、講談社 2015(平成27)年6月10日 |
初出 | 「進路」進路社、1948(昭和23)年2月号 |
入力者 | 竹井真 |
校正者 | 砂場清隆 |
公開 / 更新 | 2021-11-15 / 2021-10-27 |
長さの目安 | 約 8 ページ(500字/頁で計算) |
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☆その男が私の前に坐って何か話しているのだが、私は妙に脇腹のあたりが生温かくなって、だんだん視野が呆けてゆくのを覚える。例によって例の如く、これは相手の術策が働いているのだなと思う。私は内心非常に恥しく、まる裸にされて竦んでいる哀れな女を頭に描いていた。そのまる裸の女を前にして、彼は小気味よそうに笑っているのである。急に私は憎悪がたぎり、石のように頑なものが身裡に隠されているのを知る。しかし、眼の前にいる相手は、相変らず何か喋りつづけている。見ると彼の眼もかすかに涙がうるんでいる。ところで、漸くこの時になって私は相手が何を話していたかを了解した。ながながと彼が喋りつづけているのは自慢話であった。
☆わはっと笑って、その男が面白げに振舞えば振舞うほど、後に滑り残される空虚の淵が私を困らせた。その淵にはどうやら彼の秘密が隠されていることに私は気づいていたが、そこは彼も見せたくない筈だし、私も見たくない筈であった。それにしても彼は絶えず私の注意を動揺させておかないといけないのだろうか、まるで狐の振る尻尾のように、その攪乱の技巧で以て私を疲労させた。生暖かいものが疼くに随って、その淵に滑り墜ちそうになると、私ははっとして頓馬なことを口にしていた。すると、餌ものを覘う川獺の眼差がちらりと水槽の硝子の向に閃いているのだった。
☆私はその男と談話している時、相手があんまり無感覚なので、どうやら心のうちで揉み手をしながら、相手の団子鼻など眺めている。私を喜ばす機智の閃きもなく、私を寛がす感情のほつれも示さず、ただ単にいつもやって来てはここに坐る退屈な相手だ。どうしたらこの空気を転換さすことが出来るかと、私は頻りに気を揉んでいるのだが、そんな時きまって私は私の母親を思い出し、すると、私のなかに直かに母親の気質が目覚め、ついつまらないことを喋ったりするのだ。待っていた、とこの時相手はぶっきら棒に私の脳天に痛撃を加える。すると、私はひどく狼狽しながら、むっとして、何か奇妙に情なくなるのだった。
☆私はそこの教室へ這入って行くと、黙りこくって着席するのだが、這入ってゆく時の表情が、もうどうにもならぬ型に固定してしまったらしい。はじめて、その教室に飛込んだ時、私は私という人間がもしかするとほかの人間達との接触によって何か新しい変化を生むかと期待していたのだが、どうも私という人間は何か冷やかな人を寄せつけない空気を身につけているのか、どんな宿命によってこうまでギコチない非社交性を背負わされたのか、兎に角ひどく陰気くさい顔をしている証拠に、誰も今では私を相手にしようとしないのである。皆はそっと私を私の席にとり残しておいてくれるだけである。そこで私は机に俯向いた儘、自分の周囲に流れる空気に背を向けている。私は目には見えない貝殻で包まれた一つの頑な牡蠣であろうか。すぐそのまわりを流れている静…