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広島の牧歌
ひろしまのぼっか
作品ID60447
著者原 民喜
文字遣い新字旧仮名
底本 「三田文學 第九十四巻 第一二二号 夏季号」 三田文学会
2015(平成27)年8月1日
初出「中国新聞」中国新聞社、1950(昭和25)年12月7日
入力者竹井真
校正者村並秀昭
公開 / 更新2020-08-06 / 2020-07-27
長さの目安約 4 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 鶴見橋といふ名前があるからには、比治山に鶴が舞っていたのだらう。私の亡父はその舞っている鶴を見たことがあるといふ。
比治山の鶴が飛んだ ビンロイ
 と、箸ですくった茶碗の御飯を幼児の口にあてがってやる、おどけた習慣は今も広島の女に残っていることだらうか。比治山には要塞があった〔。〕大砲が松の間に隠されて、海の方を覘ってゐた。県師の附小生だった私は、学校の帰りによくこの山に登ったものだ〔。〕
 戦争末期に戸籍抄本のことで、この山腹の頼山陽文徳殿に疎開した市の戸籍課を訪ねたことがある。露天に机が並べてあるところで、でんでに戸籍簿を借りて自分で書き、それから判を窓口で押してもらえばいいのだった。机の隣にゐる男が「ええと、今年は昭和何年でしたかしら」と私に訊ねる。原爆より四ヶ月前のことで、建物のまはりには桜が満開だった。
 昔、管弦祭の夜には京橋の明神の浜に、おとぼん船がやって来た。橋の上にはぞろぞろと人が犇めきあって、船の上で行はれる十二神伎を見てゐる。かがり火が水に映り、衣裳の金絲銀絲が火に照らされて―それを見てゐると子供の私には、これはまるで幻夢の世界だった。幻夢といへば子供のとき、浅野三百年祭の催しに、四十七士が討入の装束で自転車に乗って往来を走って行ったのも憶い出す。まだ乗合馬車が街を走っていた頃のことで、流川のあたりには藁葺の家があったり溝が流れていた。
 本通のつきあたりに、思ひきり大きな看板があった。女の顔が描いてあった。それと角の菓子屋に、大きな張子の虎がゐた。この二つは子供心に大きなものとして刻印されていた。あるとき、明治堂といふ菓子屋の店さきで、小僧がはたきをかけながら「人生ぢゃ、人生ぢゃ、人生ぢゃのう」とわめいてゐるのを見て私の友人はけらけら笑ったものだ。人生という言葉が侵入して来たのは大正七、八年の頃からであらう。積善館や友田書店の棚には、新刊の詩集があって、それがともかく売れてゐた時代もあった。
 富士見橋から地方裁判所の方へ溝に添った一米幅の径は中学時代の私が愛好した径だった。溝の面には家々の影がくっきりと、さかさまに映りどの家の裏庭にも、花壇があって雛げしの花など咲いてをり、ひっそりとした二階からは琴の音も洩れて来る。国木田独歩のものを愛読してゐた私には、その頃これは小説のなかの風景のやうにおもへたものだ。その溝を隔てて西側の道路には、お寺ばかり並んでゐるところがあった。そのあたりも妙にひっそりとしてゐた。砂の上の枯松葉や、寺の白い壁は、ものみな滅びはてた後の静寂をおもはすことがあった。
 今ではガスタンクも原爆名所の一つになってしまったがあのタンクがはじめて空に聳〔え〕立った頃は、子供の絵心を大きく煽った。その頃はガスマントルを売る車も街を通ってゐた。電車がはじめて、この街に開通した時も、電車は小学生の好き絵題だった[#「好き絵題…

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