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紅い花
あかいはな
作品ID60482
原題КРАСНЫЙ ЦВЕТОК
著者ガールシン フセヴォロド・ミハイロヴィチ
翻訳者神西 清
文字遣い新字新仮名
底本 「紅い花 他四篇」 岩波文庫、岩波書店
1937(昭和12)年9月15日
入力者hitsuji
校正者持田和踏
公開 / 更新2022-03-11 / 2022-02-25
長さの目安約 33 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

[#ページの左右中央]


イヴァン・セルゲーヴィチ・トゥルゲーネフの記念に


[#改ページ]




「畏くも天の下しろしめす皇帝、ピョートル一世陛下の御名代として、余は本癲狂院の査閲を宣す!」
 甲高い、耳がびんびんするような大音声で、そんな文句が述べ立てられた。インクの汚点だらけの机に向かって、ぼろぼろの大きな帳簿にその患者の名を書き込んでいた病院の書記は、思わず微笑を浮かべてしまった。だが患者を護送して来た二人の若者は、にこりともしなかった。二昼夜というものまんじりともせずに、この狂人と面と向かい合って汽車に揺られた挙句に、ここまで連れて来たのだから、立っているのもやっとなのである。降りる一つ手前の駅で狂気の発作がひどくなったので、何処やらで狭窄衣を手に入れて、車掌や憲兵に手伝って貰って患者に着せたのだった。そのまま彼をこの町まで運び、いまこの病院に送りとどけたところである。
 見るも怖ろしい姿だった。発作の時ずたずたに裂いてしまった鼠色の服のうえから、刳り込みの大きいごわごわのズックの狭窄衣が、ぴっちりと胴体を緊めつけている。長い袖が、両腕をぎゅっと胸の上に十文字に組ませ、背中でくくり上げてある。真っ赤に充血した両眼は大きく見ひらかれ(これで十日のあいだ一睡もしないのだ)、じっと動かぬ燠火のように燃えている。神経性の痙攣が下唇の端をぴくぴくと引っ攣らせ、くしゃくしゃになった縮れ髪が、まるで鬣のように額に垂れかかっている。そうして事務室の隅から隅へずしずしと足早に歩き廻って、探るような眼つきで書類のはいった古戸棚や油布張りの椅子をじろじろ眺めたり、時には護送人の方をちらりと見たりする。
「病棟の方へ御案内して。右の方です。」
「僕は知っている、知っているよ。去年も君たちと一緒に来たことがあるからな。僕らはこの病院を検閲したんだよ。僕は何もかもすっかり知ってるんだから、そう易々とは騙されんぞ。」
 患者はそう言うと、扉口の方へくるりと向き直った。看視人がその前の扉をあけてやると、相変らずずしずしと足早に、しかも決然たる足どりで、狂った頭を高々と反らしながら事務室を出て行ったが、右へ折れると今度は殆ど駈足で、精神病患者の病棟の入口までやって来た。護送人たちもやっと追いついて行ったほどだった。
「ベルを押して呉れ。僕には押せん。君たちに両手を縛り上げられちまったからな。」
 番人が扉をあけると、一行はそのまま病棟へ歩み入った。
 それは昔の役所風の建て方をした、大きな石造りの建物であった。大広間が二つあって、一つは食堂に、もう一つは穏やかな患者の共同病房になっている。広い廊下が走っていて、庭の花壇へ下りる玻璃扉がついている。それから患者の入れてある単独病房が二十ばかり――ざっとこうした間どりが一階を占めている。一階にはまだそのほかに暗い部屋が二つあって…

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