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しぐれ傘
しぐれがさ
作品ID60531
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「人情武士道」 新潮文庫、新潮社
1989(平成元)年12月20日
初出「講談雑誌」博文館、1940(昭和15)年1月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者noriko saito
公開 / 更新2026-07-07 / 2026-07-06
長さの目安約 24 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

鯉の宗七





 佐野屋藤吉は、女房の酌で朝酒を呑んでいた。
 いつも四、五杯で機嫌よく酔うのが、今朝はもう二本めをあけようとしているのに、髭の剃跡の青い固肥りのした顔は妙に冴えて、「眼玉の藤吉」と綽名のついている大きな両眼は、さっきから店の方を睨んではぎらぎら光っていた。
「なんだ、もう無えのか」
「あがるんですか」
「もう一本つけてくれ。いいからつけてくれ。なんだか酔いそびれて踏んぎりがつかなくっていけねえ」
 女房のおかねは気遣わしそうに、亭主の横顔をそっと見た。
 むっつりと、変に気の詰った調子で三本めを呑み始めると間もなく、弟子の六造がやって来た。
「親方、川口町が見えました」
「此処へ通してくれ」
 そう云って藤吉は、女房に振り返った。
「おめえ二階へ行っていねえ」
「だって親方」
「いけねえ、おめえに側から口出しをされちゃあ話の筋が通らねえ、行っててくれ」
「では外しましょう、けれど親方」
 おかねは素直に立ちながら「宗七はあの通りの気質で口下手だから、頭ごなしに叱っちゃあ駄目ですよ、あれにもなにか考えのあることでしょうから……」
「それが余計なことだと云うんだ、いいから行きねえ」
 藤吉は手酌で酒を注いだ。
 おかねが二階へ去ると、入れ違いに、二十七、八になる若者が入って来た。……色の褪めた紺縞木綿の袷に、やまのいった小倉の帯を緊めている。額の広い顎の張った逞しい顔だが、ひどく蒼白めていて、ひと口に云うと、極度の神経消耗を思わせるが、その眼だけは深く潜んだ鋭い意力を湛えていた。
 名は宗七、今江戸で鯉の木彫の名人と呼ばれている男だ。……口重に挨拶をして、
「唯今はお使いでございましたが」
「ちょいと話があって来て貰った。手間を欠かして済まなかったな」
「いえなに、このところ暫くぶらぶらしているものですから」
「そうか遊んでるのか」
「遊んでるという訳でもありませんが」
「まあいいや、ひとつどうだ」
 藤吉は盃を洗って差出した。
「有難うございますが、実は断っているもんですから……どうか」
「断っている? へええ、なにか願掛けか」
「なに……願というほどのことでもありませんが」
 藤吉は黙って手酌で一杯呷った。
 それから、手に盃を持ったまま何気ない様子で相手を見た。
「実あな宗七」
「…………」
「おらあ昨夜、石町の富田屋さんに呼ばれて行って来た。お嬢さんが来月御婚礼なさるそうで、その祝に使う鯉の置物をおめえにお頼みなすったそうだ」
「……へえ」
「おめえの鯉は、一尾彫って十両が相場だ。石町さんは値に構わず欲しいとおっしゃる、……それをおめえ、お断り申したそうじゃあねえか」
「へえ、……申訳ありません」
「石町さんはそれでも是非欲しい、佐野屋おめえから頼んでくれとこう云われて帰って来た。……おめえも知っている通り、おいらにあ大事なお店だ…

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