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一貫章義(現代訳)
いっかんしょうぎ(げんだいやく)
作品ID60584
著者幸田 露伴
翻訳者中村 喜治
文字遣い新字新仮名
底本 「露伴全集 第二十八巻」 岩波書店
1954(昭和29)年10月16日
入力者中村喜治
校正者
公開 / 更新2021-02-10 / 2021-02-03
長さの目安約 77 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 昔、中国の詩人陶淵明は、書物を読むにあたっては甚解を求めないと云った。むずかしく細かな点まで穿鑿した煩わしい解釈が、甚解というものだ。読書人の読書はその大意が解ればそれで良いので、淵明のような読書人が甚解を求めなかったのは当然のことだ。しかし書物を読んで自分勝手に解釈したり、誤解したり、咀嚼もしないで生半可な解釈をしたり、解らないところが有っても強いて読み過ごして、いわゆる丸呑込みをして、それで済ませるなどというのは宜しくない。まして聖賢の書は、言葉は簡単だがその意味するところは遠いものなので、自分勝手な了見で、疎かに読み下し、そして読了するようなことは、実に宜しくない事である。力の及ぶ限りは、正しく理解し、精しく理解し、深く理解し、全体を理解し、それによって博大な内容、微妙な意味を受け取るべきなのである。そもそも聖賢の書は、書の言語文字が解り、趣旨内容を理解することだけを求めるものでは無く、人がその教を会得して実行するためのものなので、読む者が能く理解し能く覚った後に、その心をその中に浸し味わい、その身をその境地に該当させて、聖賢の意を考え求めるならば、次第にその真実の景象に接することが出来るのである。即ち少しも不明のない真の理解に至り着くのである。今、未だ真の理解に至らないのであれば、人も我も共に、真の理解を、真の理解をと、希求しなければならない。

 子曰、参乎、吾道一以貫之。曽子曰、唯。
(子曰く、参乎、吾道は一以って之を貫く。曽子曰く、唯。)
 これは『論語(里仁十五)』の一章の前半である。昔から諸先輩の解説も多いので、今更これを解説する必要はないのであるが、今の人の多くは先賢の書を読むこと少なく、従って先賢が儒教の古典(経書)を理解するのに、どんなに注意深く思考したかも知らず、ただ紙上の文字を一読するような浅い読書で済ませてしまうので、読まない前も空虚、読んだ後も空虚、読んでも読まないと同じで終る傾向がある。それではどんなに聡明な人でも何の得るところも無く、知識を得て啓発される(識得煥発)ということが少しも無く終ってしまう。識得煥発ということが無ければ読書は何の意味も無い。
 昔の人が経書などを読む場合は、その大体を理解した後に、真剣に思考すること誠に注意深いものがあって、各自の器量・性質・学問・認識に差が有るのは仕方無いが、自分は自分で出来る限りの力を尽くしたものである。また未だその大体が解らないときには、いわゆる句読訓詁、即ち字句の解釈を人にも受け、自分も考え調べ、今日の学問上からも誤りの無いように学び、大体の意味を得る準備をしたものである。このような準備と研究とを積んだ上で、なおその事柄について広く詳しく知り、過去の事例から類推したり、その事柄を敷衍して考えたり、結論はどうか、支障は無いかと検討したりと、努力を重ねて始めて会得できるのであ…

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