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浅草むかしばなし
あさくさむかしばなし
作品ID60610
著者永井 荷風
文字遣い新字新仮名
底本 「問はずがたり・吾妻橋 他十六篇」 岩波文庫、岩波書店
2019(令和元)年8月20日
初出「東京日日新聞 第四五五~第四五六号」東京日日新聞社、1950(昭和25)年3月8日~9日
入力者入江幹夫
校正者金井梓
公開 / 更新2021-12-03 / 2022-02-11
長さの目安約 5 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 浅草公園のはなしもあんまり古いことは大抵忘れてしまったからここでは話すことはできない。十二階の初めて建てられた時も、六区に米国南北戦争のパノラマの出来た事も、見に行ったことは記憶しているがはっきりした年代がわからないから暫くおあずけにして置こう。僕が二十になった頃から(即明治三十年頃から)のことならどうやら記憶しているようだ。一番はずれの江川劇場は玉乗や手品の興行で人に知られていた。現在吉本のグランド映画劇場のところには何があったか、今ではわからない。その隣の現在ロック座の在るところは戦争で取払になるまでは萬盛座と云う劇場で剣劇と五一郎一座の軽演劇をやっていた。その以前は萬盛庵という蕎麦屋であった。戦争中までオペラ館の在ったところはたしか都座と云って源氏節と女芝居がかかっていたと思う。常盤座は古くから現在の処にあった芝居小屋で、明治三十年代には新派の役者が出ていた。山口定雄の一座、その後に佐藤歳三の一座が出ていた事だけ記憶している。今の映画女優山田五十鈴の父山田九州男(女形)も出ていたと思う。間違っているかも知れない。その時分映画館はまだ一軒も無かった。常盤座の向側はルナパークで、その以前には人工の富士山があった。興行町の広い通はその辺で行留りになり、そこから細い路地のような横町を抜けると表通の古書肆浅倉屋の近くに出るのだ。明治四十年頃には映画館は既に盛であった。安来節の踊や泥鰌すくいの流行ったのは大正になってからだろう。委しいことは知らない。その時分現在の松竹座は御国座という芝居で、沢村訥子の一座がかかっていた。大正十年頃に自火で焼けて新築してから松竹座になった。松竹少女歌劇の初めて興行されたのは松竹座だ。公園劇場だったか観音劇場だったかはっきり覚えていないが、大正時代に今の大勝館の裏あたりにも劇場があって一時中村又五郎が明治座の左団次一座から分れて一座をつくっていた事もあった。公園裏の宮戸座は明治三十年頃に新しく出来た芝居で、初は伊井蓉峰一座が掛っていたと思う。大正の初頃には旧派に代って源之助翫五郎鬼丸秀調などが掛っていた。活動と芝居とを一所にした連鎖劇というものも掛っていた。
 公園内外の料理屋や飲食店は大正十二年の地震までは数も多いし繁昌もした。料理屋では花屋敷の近くの松島が会席茶屋で人に知られていた。一直も花屋敷の裏にあった宴会茶屋だ。しかしその頃一番繁昌していたのは公園裏の鳥料理屋大金だろう。芸者の箱も入るし心持のいい風呂場もあった。震災前道路取ひろげの頃に閉店したらしい。千束町の通にあった平野と云う鳥料理屋も大金に劣らぬ家で、庭も座敷もわるくはなかった。震災後も繁昌していた。吉原帰りの御客が仲の町の芸者幇間を引連れて来るので朝早くから風呂が焚いてあった。公園内外の料理屋の上等な家はいずれもむかしから仲の町とは連絡がついていた。日本堤に平松。廓…

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