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或夜
あるよる
作品ID60613
著者永井 荷風
文字遣い新字新仮名
底本 「問はずがたり・吾妻橋 他十六篇」 岩波文庫、岩波書店
2019(令和元)年8月20日
初出「勲章」扶桑書房、1947(昭和22)年5月10日
入力者入江幹夫
校正者noriko saito
公開 / 更新2022-01-15 / 2022-02-11
長さの目安約 12 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 季子は省線市川駅の待合所に入って腰掛に腰をかけた。しかし東京へも、どこへも、行こうという訳ではない。公園のベンチや路傍の石にでも腰をかけるのと同じように、ただぼんやりと、しばらくの間腰をかけていようというのである。
 改札口の高い壁の上に装置してある時計には故障と書いた貼紙がしてあるので、時間はわからないが、出入の人の混雑も日の暮ほど烈しくはないので、夜もかれこれ八時前後にはなったであろう。札売る窓の前に行列をする人数も次第に少く、入口の側の売店に並べられてあった夕刊新聞ももう売切れてしまったらしく、おかみさんは残りの品物をハタキではたきながら店を片付けている。向側の腰掛には作業服をきた男が一人荷物を枕に前後を知らず仰向けになって眠っている。そこから折曲った壁に添うて改札口に近い腰掛には制帽の学生らしい男が雑誌をよみ、買出しの荷を背負ったまま婆さんが二人煙草をのんでいる外には、季子と並んでモンペをはいた色白の人妻と、膝の上に買物袋を載せた洋装の娘が赤い鼻緒の下駄をぬいだりはいたりして、足をぶらぶらさせているばかりである。
 色の白い奥様は改札口から人崩の溢れ出る度毎に、首を伸し浮腰になって歩み過る人に気をつけている中、やがて折革包を手にした背広に中折帽の男を見つけて、呼掛けながら馳出し、出口の外で追いついたらしい。
 季子は今夜初てここに来たのではない。この夏、姉の家の厄介になり初めてから折々憂鬱になる時、ふらりと外に出て、蟇口に金さえあれば映画館に入ったり、闇市をぶらついて立喰いをしたり、そして省線の駅はこの市川ばかりでなく、一ツ先の元八幡駅の待合所にも入って休むことがあった。その度々、別に気をつけて見るわけでもないが、この辺の町には新婚の人が多いせいでもあるのか、夕方から夜にかけて、勤先から帰って来る夫を出迎える奥様。また女の帰って来るのを待合す男の多いことにも心づいていた。季子はもう十七になっているが、しかし恋愛の経験は一度もした事がないので、さほど羨しいとも厭らしいとも思ったことはない。ただ腰をかけている間、あたりには何一ツ見るものがない為、遣場のない眼をそう云う人達の方へ向けるというまでの事で、心の中では現在世話になっている姉の家のことしか考えていない。姉の家にはいたくない。どこか外に身を置くところはないものかと、さし当り目当のつかない事ばかり考えつづけているのである。
 この前来た時には短いスカートからむき出しの両足を随分蚊に刺されたが、今はその蚊もいなくなった。二人づれで涼みに来たり、子供を遊ばせに来る女もいたが今はそれも見えない。時候はいつか秋になり、その秋の夜も大分露けくなった。と思うと、ますます現在の家にいるのがいやでいやでたまらない気がして来る……。
 季子は三人姉妹の中での季娘で、二人の姉がそれぞれ結婚してしまった後、母と二人埼玉県…

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