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墓畔の梅
ぼはんのうめ |
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作品ID | 60638 |
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著者 | 永井 荷風 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「問はずがたり・吾妻橋 他十六篇」 岩波文庫、岩波書店 2019(令和元)年8月20日 |
初出 | 「時事新報 一万九千二百五十八号~一万九千二百六十号」1946(昭和21)年1月9日~11日 |
入力者 | 入江幹夫 |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2022-02-09 / 2022-02-11 |
長さの目安 | 約 6 ページ(500字/頁で計算) |
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ふるさとの東京には、去年の秋流寓先から帰ったその日、ほんの一夜を明したばかりなので、その後は東京の町がどうなったか、何も知るよしがない。年は変って春の来るのも近くなった。何かにつけて亜米利加に関することが胸底に往来する折からでもあろう。不図わたくしは、或年の春、麻布広尾なる光林寺の後丘に米国通訳官ヒュースケンの墳墓をたずねたことを思出した。
ヒュースケンの事蹟は今更贅するに及ぶまい。開港前下田に上陸した米国の使節タウンセント、ハリスが幕府の有司と談判するには和蘭陀語に通ずる事の必要から、和蘭陀人にしてまた米国人なるその人を伴って来た。本国には一人の母がいたと云う。ヒュースケンは後に米国の公使館が九段下から麻布善福寺の境内に移されてから、一夜芝赤羽橋外異人接遇所から馬でかえる道すがら、薪河岸で日本の刺客数人に襲われ重傷を負い、善福寺境内の公使館に入ると間もなく息を引取った。今座右に参考書を持たないから、文久年間とばかりで、歳月を明記することができない。
葬式はどういう関係からであるか、善福寺では執行せられず、さほどには遠からぬ広尾の光林寺で営まれ、その亡骸はその裏手の岡に登る墓地に埋葬せられた。その時の光景は英国公使オルコックが「大君の首都における三年」と題された名高い記録に細述せられている。それに依って見るに、葬儀の主宰者は仏蘭西の伝道師某氏で、英米独仏の使節と随員とが参列し、独逸軍艦から上陸した海兵が軍楽を吹奏した。そして、光林寺の境内には老樹が多く墓地の幽邃であった事までが仔細に描写せられている。
わたくしがヒュースケンの墓を見て置きたいという心になったのは、オルコック公使の記録に誘われたが為である。記録は乾燥なる報告書ではない。著者は後に江戸浮世絵の蒐集家として欧洲の好事家中に知られた人だけあって、観察は細微に渉り、文章は理路整然としていながら、時には神経質かと思われる程感情に富んでいる。
わたくしは読下の際、光林寺葬送当日の光景は、もしもわたくしにして、これを能くすべき才能があったなら、好個の戯曲、好個の一幕物をなさしむるに足るべきような心持がした。顧れば十余年前の事である。満洲事変が起ってから、世には頻々として暗殺が行われ初めた頃である。一種の英雄主義が平和に飽きた人心を蠧毒し初めた頃である。しかるに、どういうわけからか、この新しい世の趨勢に対して、わたくしは不満と不安とを覚えて歇まざる結果、日本刀の為に生命を失った外国使臣の運命について、これを悲しむ情の俄に激しくなるのを止め得なかった。日本刀を以て外客を道に斬った浪士の心は言うまでもなく壮となすべきであろう。しかし、それと共に、老母を国に残して来た遠客の死は、更に遥に悲壮であり、また偉大であると言わねばなるまい。
わたくしは慶応義塾の教壇を退いてから、久しく広尾のあたりを通る機会がな…