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おくのほそ道
おくのほそみち
作品ID60640
副題04 解説
04 かいせつ
著者杉浦 正一郎
文字遣い旧字新仮名
底本 「芭蕉 おくのほそ道」 岩波版ほるぷ図書館文庫、岩波書店
1975(昭和45)年9月1日
初出「おくのほそ道」岩波文庫、岩波書店、1957(昭和32)年2月25日
入力者砂場清隆
校正者officeshema
公開 / 更新2025-02-23 / 2025-02-19
長さの目安約 21 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

芭蕉の生涯

 芭蕉は寛永二一年(一六四四)伊賀上野赤坂町に、松尾與左衞門の二男として生まれた。松尾家は與左衞門の代に柘植から上野に移り、手習師匠を家職としていたという。芭蕉の幼名は金作、長じて甚七郎、別に忠右衞門とも稱した。十歳の頃、藤堂家の侍大將藤堂良精に召されて、その嗣子良忠に近侍した。良忠は芭蕉と同年輩で、俳諧を北村季吟に學び俳號を蝉吟と稱したが、芭蕉も主君とともに俳諧をたしなむようになった。彼が季吟の門人として出發し俳諧を生涯の計とするに至った機縁はこの少年時代の出仕にあったわけである。
 今日知られている芭蕉の最古の發句は、松江重頼撰『佐夜中山集』(寛文四刊)に、主君蝉吟とともに、松尾宗房の名で入集しているつぎの二句である。
姥櫻咲くや老後の思ひ出
月ぞしるべこなたへ入らせ旅の宿
 芭蕉二一歳の作である。以後、風虎撰『夜の錦』(寛文六刊)、季吟撰『續山井』(寛文七刊)、正盛撰『耳無草』(寛文七刊)、安靜撰『如意寶珠』(寛文九成・延寶二刊)、正辰撰『大和順禮』(寛文一〇刊)、春流撰『藪香物』(寛文一一刊)、維舟撰『時世粧』(寛文一二成)、梅盛撰『山下水』(寛文一二刊)等の諸集に伊賀上野宗房、または松尾宗房として入集しているが、いずれも古風で類想的な域を脱しないいわゆる貞門の作風である。
 寛文一二年一月二五日、彼は伊賀上野の天滿宮に三〇番の發句合、すなわち『貝おほひ』を自撰して判詞を加え、奉納した。これが彼の處女撰集であるが、當時の小歌の詞章や奴言葉などを豐富に採り入れた判詞や序跋は後年の才氣をうかがわしめるものがある。これよりさき、寛文六年四月二五日主君蝉吟は死去し(享年二五歳)、六月中旬彼は使してその位牌を高野山報恩院に納めたという。その後の經歴には不明な點が多いが『貝おほひ』奉納の頃まで引きつづいて伊賀に在住したものと思われる。一般に芭蕉が主君の沒後致仕し(あるいは致仕を乞うたが許されず出奔し)上洛して學問修業につとめたという説が行われているが確證はない。
『貝おほひ』奉納の後、彼は江戸に下り同じ季吟門の小澤卜尺(仙風とも)宅に身を寄せ、その後本郷・濱町・本所高橋等を轉々とし、卜尺や杉山杉風の援助を得ていたと傳えられる。また醫に携わって素宣と號したり、小石川關口水道工事の小吏となったりしたともいう。「ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは佛籬祖室の扉に入らむ」(幻住庵記)として摸索をつづけたのもこの時期であるが、やがて彼は、江戸の俳壇に頭角を顯わし、當時流行した談林の新風の先端を行くようになった。延寶三年五月、當時東下中の西山宗因指導の百韻に、幽山・似春・信章(後に素堂)等とともに桃青の號で一座したのをはじめとして、翌延寶四年春、信章との兩吟集『江戸兩吟集』、延寶五―六年にかけて成った信章・信徳との三吟集『江戸三吟』等によってその俳人として…

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