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老人
ろうじん
作品ID60641
著者永井 荷風
文字遣い新字新仮名
底本 「問はずがたり・吾妻橋 他十六篇」 岩波文庫、岩波書店
2019(令和元)年8月20日
初出「オール読物 第五巻第七号」文藝春秋新社、1950(昭和25)年7月1日
入力者入江幹夫
校正者noriko saito
公開 / 更新2023-12-03 / 2023-11-26
長さの目安約 11 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 臼木は長年もと日本橋区内に在った或病院の会計をしていた時分から、株式相場にも手を出し、早くから相応に財産をつくっていたが、支那事変の始ったころ、年も六十近くなったので、葛飾区立石町に引込み、老妻に釣道具と雑貨とを売らせ、自分は裏畠に花や野菜を栽培したり、近くの中川や江戸川へ釣に出たりして老後の日を楽しく送っている。
 忰が一人、娘が一人あったが、忰の方は出征すると間もなく戦死し、娘はそれより以前に結婚して下ノ関に在る良人の家に行ってしまったので、その後戦争が終った明る年の秋、老妻に死なれた時、臼木は全く孤独の身となった。年は六十七になっていた。
 葬式の時には老妻の従妹に当るお近という産婆がその住んでいる甲府の町から、また下ノ関にいる娘常子というのが出て来て始末をしてくれたが、二人とも初七日の法事の済み次第帰ることになっていた。その日寺から戻って来て、三人夕飯の膳に向った時、
「では父さん。わたし達はあした帰りますよ。父さんはこれから先、どうなさるつもりなの。一人で困りゃしませんか。お店の番もしなければならないし。配給物も取りに行かなければならないでしょう。」と言出したのは娘の常子である。
 臼木はわざとらしく別に困りもしないというような調子で、
「まア、どうにかして見ようよ。困るといったところで仕様がないからな。忰が生きていて嫁でも貰っていれば家の事だけはやってくれたろうが、死んでしまったんじゃどうにもならない。」
 産婆のお近はこれもわざとらしいまで事もなげに、「おじさん。どんなもんでしょう。もう一度おかみさんを貰って見たら。」
「何を言うんだ。はははは。この年になって女房が貰えるものか。こっちで貰おうと思っても来手があるまい。」
「そんな事はありませんよ。広い世間にゃ七十になってから茶飲みばなしの相手を貰ったような話も珍しくはありませんからね。」
「そうかね。縁は不思議なものだというから、そんな話もあるかも知れない。しかし見ず知らずの年寄同士じゃ二人顔をつき合したところで、どうなるものだか一寸考えがつかないね。それよりか、お前達、あした帰るんならもう仕度をして置くがいいぜ。」
「帰りの乗車券は此方へ来る時駅へ申込んで置きましたからね。いつでも買える筈です。わたしの方は山梨県だからわけはないけど、常子さんの方は食料も一日分じゃ足りますまい。」
「京都に心やすくしている家がありますから、そこでまた後の分は拵えてもらいます。」と常子が答えた。
 臼木は大切な用事を忘れていたと云う風で、
「亡った人の形身分をしなければならない。ほんとは四十五日か七十五日にやるのだろうが、ついでだから今の中、帰りの荷物と一ツにして持って行って貰いたいね。帯でも襦袢でも欲しいものは選り取って持って行くがいい。」
「ええ。ありがとう。戦災から着物は全く宝物になりました。」
「その…

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