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あぢさゐ
あぢさい
作品ID60659
著者永井 荷風
文字遣い新字新仮名
底本 「花火・来訪者 他十一篇」 岩波文庫、岩波書店
2019(令和元)年6月14日
初出「中央公論 第四十六年第三号」1931(昭和6)年3月1日
入力者入江幹夫
校正者きりんの手紙
公開 / 更新2023-12-03 / 2023-11-26
長さの目安約 23 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 駒込辺を散策の道すがら、ふと立寄った或寺の門内で思いがけない人に出逢った。まだ鶴喜太夫が達者で寄席へも出ていた時分だから、二十年ぢかくにもなろう。その頃折々家へも出入をした鶴沢宗吉という三味線ひきである。
「めずらしい処で逢うものだ。変りがなくって結構だ。」
「その節はいろいろ御厄介になりました。是非一度御機嫌伺いに上らなくっちゃならないんで御在ますが、申訳が御在ません。」
「噂にきくと、その後商売替をしなすったというが、ほんとうかね。」
「へえ。見切をつけて足を洗いました。」
「それア結構だ。して今は何をしておいでだ。」
「へえ。四谷も大木戸のはずれでケチな芸者家をして居ります。」
「芸人よりかその方がいいだろう。何事によらず腕ばかりじゃ出世のできない世の中だからな。好加減に見切をつけた方が利口だ。」
「そうおっしゃられると、何と御返事をしていいかわかりません。いろいろ込入ったわけも御在ましたので。一時はどうしたものかと途法にくれましたが、今になって見れば結局この方が気楽で御在ます。」
「お墓まいりかね。」
「へえ。先生の御菩提所もこちらなんで御在ますか。」
「なに。何でもないんだがね。近頃はだんだん年はとるし、物は高くなるし、どこへ行っても面白くないことずくめだからね。退屈しのぎに時々むかしの人のお墓をさがしあるいているんだよ。」
「見ぬ世の友をしのぶというわけで。」
「宗さん。お前さん、俳諧をやんなさるんだっけね。」
「イヤモウ。手前なんざ、ただもう、酔って徘徊する方で御在ます。」
 話をしながら本堂の裏手へ廻って墓場へ出ると、花屋の婆は既にとある石塔のまわりに手桶の水を打ち竹筒の枯れた樒を、新しい花にさしかえ、線香を手に持って、宗吉の来るのを待っていた。見れば墓石もさして古からず、戒名は香園妙光信女としてあるので、わたしは何心もなく、
「おふくろさんのお墓かね。」
「いえ。そうじゃ御在ません。」と宗吉は袂から珠数を取出しながら、「先生だからおはなし申しますが、実は以前馴染の芸者で御在ます。」
「そうかい。人の事はいえないが、お前さんも年を取ったな。馴染の女の墓参りをしてやるような気になったかな。」
「へへえ。すっかり焼きがまわりました。先生お笑いなすッちゃいけません。」と宗吉はしゃがんで、口の中に念仏を称えていたが、やがて立上り、「先生、この石塔も実は今の嚊には内々で建ててやったんで御在ます。」
「そうか。じゃ大分わけがありそうだな。」
「へえ。まんざら無いことも御在ません。親爺やお袋の墓は何年も棒杭のままで、うっちゃり放しにして置きながら、頼まれもしない女の石塔を建ててやるなんて、いい年をしていつまで罰当りだか、愛想がつきます。石がたしか十円に、お寺へ五円、何のかのと二拾円から掛っています。」
「どこの芸者衆だ。」
「葭町の房花家という家にいた小…

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