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![]() しゅくはい |
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作品ID | 60665 |
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著者 | 菊池 寛 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「菊池寛文學全集 第三巻」 文藝春秋新社 1960(昭和35)年5月20日 |
初出 | 「電氣と文藝」1920(大正9)年9月号 |
入力者 | 卯月 |
校正者 | 友理 |
公開 / 更新 | 2022-03-01 / 2022-02-25 |
長さの目安 | 約 6 ページ(500字/頁で計算) |
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久野の家を出た三人は、三丁目から切通しの方へ、ブラ/\歩いていた。五六年前、彼等が、一高にいたときは、この通を、もっと活溌な歩調でいくたび散歩したか分らなかった。
その時は、啓吉も久野も、今度久しぶりで、ヒョックリ上京して来た青木も、銘々それ/″\に意気軒昂たるものであった。その中でも、青木が一番自信を持っていた。その天才的な態度や行動のために、みんなからも一番輝く未来を持つように思われていた。
啓吉や久野も、いつの間にか、青木には一目も二目も置いていた。が、運命は皆の期待した通りには、めぐらなかった。みんなから、一番嘱望されていた青木は、大学に入ったその年に、彼自身の不行跡から、学校にいられなくなり、啓吉や久野にも随分不義理な事をして、日の目を見ないような山陰の田舎に埋もれてしまった。田舎で英語の私塾を開いているといったような噂を、啓吉は誰からともなく聞いていた。その青木が何の前触もなく突然上京して、啓吉を訪ねて来たのである。
青木が、みんなの期待を裏切って、埋もれてしまったのと反対に、啓吉も久野も文壇的には自分達の予想以上の世の中に出ていた。
「文学に志したのだから、せめて翻訳でもして、文名を成したい。」
そんな謙虚な事を考えていた啓吉は今では、思いがけなくも新進作家として、相当な位置を占めている。久野などは啓吉よりも、更に一年も早く文壇に出てしまっている。
久野も啓吉も黙って歩いていた。五六年前には、何の相違もなかった三人の間に、今では社会的には、ハッキリとした区劃が付いている。
久野敏雄といえば、文学好きの青年は、大抵名前だけは知っている。が、青木好男といっても、誰が知っているだろう。五六年前は、同窓の間では、敬意と、かすかではあるが、驚異とを以て、呼ばれたその名前が、今では何人も知らない平凡な普通人の名前になってしまっている。
「僕ね。今度台湾の方へ行くようになったのだよ。総督府に調査部というのがあってね。そこへ行くことになったんだ。」
三人の沈黙を破るように、青木は昔ながらの、美しい沈んだ声でいった。
「そうか。それは結構だね。」と、久野も啓吉も同時にいった。が、二人ともそれについて、何の意味もなかった。思索家として、優れた芽を持っていそうに見えた青木が、調査部とか何とかいう雑務に従事するということが、久野や啓吉の心を暗くした。
三人は、また黙って歩いた。一高時代の回想談などは、今の三人の顔触れでは、どれもこれも皮肉になるので、啓吉も久野も話し出さなかった。
それよりも、啓吉は今もっと、話したいことは今度B社から出ることに定まった自分の第一の創作集のことだった。昨日話が定まって以来、自分だけの胸に、蔵って置くのには、あまりに嬉し過ぎることだった。第一の創作集が、世に出るときの嬉しさは、そうした経験のある人でなければ、分らないこ…