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天の配剤
てんのはいざい
作品ID60713
著者菊池 寛
文字遣い新字新仮名
底本 「菊池寛文學全集 第三巻」 文藝春秋新社
1960(昭和35)年5月20日
入力者卯月
校正者友理
公開 / 更新2022-03-06 / 2022-02-25
長さの目安約 6 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 自分が京都に居たとき、いろ/\な物が安かった。食費が月に六円だった。朝が六銭で昼と晩が八銭ずつだった。一日二十二銭の訳なのだが、月極めにすると二十銭に負けて呉れるのだった。素人の家の間を借りて居たが、間代が二円だった。もっとも、自分は大学生として、最もつましい生活をして居たには違ない。が、食と住とが僅か十円以下で足りたかと思うと、隔世の感がある。
 二十円足らず送って貰って居た学費でも、そう不自由もしなかった。その頃の五円十円は、それほど有難かった。
 大正二年の十一月だった。河合武雄の公衆劇団が京都へ来た。一番目が『茶を作る家』と云う狂言だった。愛蘭土劇を飜案したものだった。友人の久米が、東京で見て、面白いから是非見ろと云うハガキを寄越して来た。その頃、近代劇を専攻して居た自分は、今よりも、芝居に対して熱心だった。自分は、初日が開くのを、待ちあぐんで居た。忘れもしない十一月八日が初日だった。ちょうど土曜日だった。
 その時自分の蟇口には、六円といくらかあった。それがその月中の小遣だったのだ。京都座の前で、自分は何等を買おうかと、ちょっと思案した。が、その頃は極度に節倹だった自分は、四等を買ってしまった。三十銭の観覧料が、初日だったので半額の十五銭だったのだ。
 汚い四等席の畳の上に、自分は腰を落着けた。が、自分はこんなことを考えた。たとえ、四等に蹲って居ても、こゝに集まって居る見物の殆どすべてよりも、芝居に就いては、分って居るのだ。そう思うと、淋しい痩我慢が出来た。自分は可なり熱心に見て居た。
 一幕目が了ったときだった。自分の横へ、一人の職員風の若い男が来て坐った。青い棒縞の汚い着物を着て居た。
「これ、なんと云う芝居ですか。」と、云ったような調子で、狂言に対する自分の註釈を求めた。芝居に対する知識を、内心で得意にして居た自分は、そう訊かれると、得意になって話し出した。公衆劇団の性質やら、狂言の主題や、新劇運動の主旨と云ったようなものを、得意になって話したように覚えて居る。若者は、熱心に聴いて居るような風をして居た。
 二幕目が始まる前に、自分は便所へ立った。席へ帰ろうとしたときに、もう幕が開いて居た。強いて帰るほどの席でもなかった。廊下にも沢山の人が立って見て居たので、自分もそこで立って見ることにした。そうした方が、四等席で見るよりも、よく見えたのである。二幕が、もう了りかけた時であった。四十ばかりの女が、自分の背後から靠れかゝるようにした。自分は、その容子を変に思った。自分は掏摸ではないかと、直覚的に思った。自分は、急いで左の袂を探って見た。自分が怖れた通り蟇口が無くなって居たのである。念のために、右の袂を探った。がそこに自分の手に触れたのは堅い下足札だけであったのである。
 自分は、てっきりその四十女が、盗んだものと確信した。
「君は、僕の蟇口を…

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