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わたくし
作品ID60725
著者谷崎 潤一郎
文字遣い新字旧仮名
底本 「谷崎潤一郎全集 第八巻」 中央公論新社
2017(平成29)年1月10日初版
初出「改造 第三巻第三号」1921(大正10)年3月1日
入力者黒潮
校正者友理
公開 / 更新2023-07-24 / 2023-07-17
長さの目安約 25 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

もう何年か前、私が一高の寄宿寮に居た当時の話。
或る晩のことである。その時分はいつも同室生が寝室に額を鳩めては、夜おそくまで蝋勉と称して蝋燭をつけて勉強する(その実駄弁を弄する)のが習慣になつて居たのだが、その晩も電燈が消えてしまつてから長い間、三四人が蝋燭の灯影にうづくまりつゝおしやべりをつゞけて居たのであつた。
その時、どうして話題が其処へ落ち込んだのかは明瞭でないが、何でも我れ/\は其の頃の我れ/\には極く有りがちな恋愛問題に就いて、勝手な熱を吹き散らして居たかのやうに記憶する。それから、自然の径路として人間の犯罪と云ふ事が話題になり、殺人とか、詐欺とか、窃盗などゝ云ふ言葉がめい/\の口に上るやうになつた。
「犯罪のうちで一番われ/\が犯しさうな気がするのは殺人だね。」
と、さう云つたのは某博士の息子の樋口と云ふ男だつた。
「どんな事があつても泥坊だけはやりさうもないよ。―――何しろアレは実に困る。外の人間は友達に持てるが、ぬすツととなるとどうも人種が違ふやうな気がするからナア。」
樋口はその生れつき品の好い顔を曇らせて、不愉快さうに八の字を寄せた。その表情は彼の人相を一層品好く見せたのである。
「さう云へば此の頃、寮で頻りに盗難があるツて云ふのは事実かね。」
と、今度は平田と云ふ男が云つた。平田はさう云つて、もう一人の中村と云ふ男を顧みて、「ねえ、君」と云つた。
「うん、事実らしいよ、何でも泥坊は外の者ぢやなくて、寮生に違ひないと云ふ話だがね。」
「なぜ。」
と私が云つた。
「なぜツて、委しい事は知らないけれども、―――」と、中村は声をひそめて憚るやうな口調で、「余り盗難が頻々と起るので、寮以外の者の仕業ぢやあるまいと云ふのさ。」
「いや、そればかりぢやないんだ。」
と、樋口が云つた。
「たしかに寮生に違ひない事を見届けた者があるんだ。―――つい此の間、真ツ昼間だつたさうだが、北寮七番に居る男が一寸用事があつて寝室へ這入らうとすると、中からいきなりドーアを明けて、その男を不意にピシヤリと殴り付けてバタバタと廊下へ逃げ出した奴があるんださうだ。殴られた男は直ぐ追つかけたが、梯子段を降りると見失つてしまつた。あとで寝室へ這入つて見ると、行李だの本箱だのが散らかしてあつたと云ふから、其奴が泥坊に違ひないんだよ。」
「で、その男は泥坊の顔を見たんだらうか?」
「いや、出し抜けに張り飛ばされたんで顔は見なかつたさうだけれども、服装や何かの様子ではたしかに寮生に違ひないと云ふんだ。何でも廊下を逃げて行く時に、羽織を頭からスツポリ被つて駈け出したさうだが、その羽織が下り藤の紋附だつたと云ふ事だけが分つてゐる。」
「下り藤の紋附? それだけの手掛りぢや仕様がないね。」
さう云つたのは平田だつた。気のせゐか知らぬが、平田はチラリと私の顔色を窺つたやうに思へた。さうして…

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