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学生時代の久米正雄
がくせいじだいのくめまさお |
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作品ID | 60740 |
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著者 | 菊池 寛 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「菊池寛全集 補巻」 武蔵野書房 1999(平成11)年2月10日 |
初出 | 「新潮」1918(大正7)年9月 |
入力者 | 友理 |
校正者 | hitsuji |
公開 / 更新 | 2023-03-01 / 2023-02-28 |
長さの目安 | 約 5 ページ(500字/頁で計算) |
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高等学校に入学すると間もなく教室で、自分の机の直ぐ傍に顔のやゝ赤い溌剌たる青年を見附けた、その青年はASAKAと云ふ字を染めぬいた野球のユニホームを着て居たので、少からず我々を駭かしもすれば、笑はせもしたものだ、さうした稚気がその頃の久米には可なりあつた。其処がまた久米の可愛い所ではあつたが。
間もなく久米はそのユニホームを脱いだ事は脱いだが、そのユニホームのお蔭で二三度野球部の選手達の為に、運動場へ引きずり出されて練習をやらされてゐるのを見た事がある。
その頃から久米は天性の才気とその野次性と茶気との為に、教室でなくてはならぬ愛嬌者になつてしまつて居た。
久米の教室に於ける機智や頓才は幾度我々を欣ばしたか分らないが、今迄も忘れないのは独逸語の時間に久米が独逸語の何とか云ふ字(古い鉄砲の名)を、「種ヶ島」と訳したので皆の大喝采を博した事である。
その頃に於ける久米の印象と云へば、沢山あるが、何でも芝居に熱中して居た頃の事、ある晩久米と一緒に中洲の真砂座へ行つた、馬鹿に閉場が遅くて電車通に出た頃は赤が通つてしまつた後であつた。で仕方なく本郷迄テク/\歩いて来たが、学校へ辿りついたのは一時を廻つた頃で無論門が閉まつて居た。仕方なしに門を越す事にして、久米が先づ門を越し、自分が続いて越さうと門の頂上へ両手をかけて身体を持ち上げた時であつた、「コラツ誰だ!」と云ふ声がして、其処に在る門衛の小屋の中から五六人の黒影が飛び出して来て、いきなり久米に跳びかゝつた、不意の事なので久米は可なり狼狽して逃げ出さうとしたが、多勢に無勢で直ぐ捕つてしまつた。自分は、門の頂上に身を置きながら、此活劇を見て居たが、その時の久米の印象は、今でも中々忘れられない。その中に、久米を捕まへた連中の一人は、直ぐ門の上に居る自分を見附けて「彼処にも一人居る」とか何とか云つたので、自分も仕方なく門から飛び下りたが、此連中は寮の委員で此頃門限後に外出する者が、多いので取調べの為に張込んで居たものと分つたが、久米も自分もよく知られた顔なので「何だ久米と菊池ぢやないか」と、張合抜けがした様子で直ぐ放免されたが、改めて明くる日取調られた時も、真砂座へ行つて居た事が判ると、委員長の小倉と云ふ男が芝居好で、自分達とよく大入場などで落合うた仲なので、訳なく事済みになつたのは可笑しかつた。
もう一つ久米の忘れられない印象と云ふのは、自分と久米と松岡との三人で狂言の「鎌腹」をやつた時の事だ。記念祭の余興として各寮から余興を一つづゝやるので、その時自分達は南寮の余興として出演したのだ。其時迄狂言などは一度も稽古をした事はないし、余り見た事もないのだが、余興として出演すると、二円ばかりの慰労が出るのでその頃小遣に困り抜いて居た自分達は、進んで買つて出た訳なのだ。今から考ればよくもあんな事が出来たものだ。が、久…