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ペンクラブと芸術院
ぺんくらぶとげいじゅついん
作品ID60750
著者正宗 白鳥
文字遣い新字新仮名
底本 「今年の秋」 中公文庫、中央公論社
1980(昭和55)年9月10日
初出「新潮 第五十四巻第七号」新潮社、1957(昭和32)年7月1日
入力者藤間清霞
校正者友理
公開 / 更新2022-10-28 / 2022-09-27
長さの目安約 9 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 今秋ペンクラブの世界的大会が日本で開催されるのである。それについて、私は昔の微々たるペンクラブ発生の頃を思出した。私は島崎藤村逝去後にペンクラブの会長に推薦され、終戦まで一年ばかりその名誉ある地位に身を置いていたのである。私が会長になるなんて可笑しな事なんだが、確かに会長であった。会員中の有力者が会合のたびに会の運転について意見を述べて、私は殆ど盲従していたのに過ぎず、甚だ権威が無かったが、兎に角会長の席に就いていた筈だ。
 島崎藤村は、しんねりむっつりであっても、私とちがって貫禄があった。大倉喜七郎が藤村崇拝で、藤村に物資的援助をしていたが、藤村はその与えられた金をそっくりペンクラブに寄附していたので、それだけでも、藤村はクラブで重きをなしていた筈だ。一度藤村は、築地の料亭に大倉を主賓として、当時は珍重されていた白米と鮮魚の料理をペンクラブ会員一同に振舞ったこともあった。藤村はアルゼンチンのペンクラブに日本のクラブの代表として出席したこともあった。それに比べると、私の会長振りは見窄らしくて、有れども無きが如くであった。
 しかし、今回顧すると、戦争末期に私が会長であったことは、その所を得ていたのである。そのためにペンクラブのその時の歴史が綺麗であったのである。誰もそんな事に気がつかないだろうし、私自身もそんな事を考えてもいなかったが、今考えると、一つの人世光景がほがらかに思浮ぶのである。傍観的であり無気力であった私は、ペンクラブ会長として何もしなかった。しかし、戦争末期の世相混乱、自暴自棄的の苛烈な騒ぎの間に、それに捲き込まれないで、何もしなかったという事は、何かやっていたよりも、却って人生妙味があったのではないか。文学報国会や言論報国会などでは、盛んに時局に活躍して、軍部の態度に迎合し、情報局の支配に隷属し、情報局の奥村某の一顰一笑を気にしていたのであったが、私の会長であった頃のペンクラブは、軍部や情報局の思惑は全く無視していた。八紘一宇や国体明徴運動なんかに加入しなかった。若し働き手の有力な会長がいたなら、ペンクラブももっと花々しい存在になっていたのであろうが、その花々しさは、軍部や情報局の意向に従った上の花々しさであったにちがいない。それで、何もしなかった私は、ペンクラブを影の薄いものとしたにしても、それを泥土で汚させなかった。
 このクラブの事務をやっていた鈴木某という青年は、殆ど無報酬で煩わしい雑務を運転していたが、私同様に積極的に、目に立つような事をやろうとはしなかった。藤村の建碑式の時に、私は一しょに大磯へ行って、式の手伝いをして、帰りには、警察署長に頼んで汽車の切符を手に入れたりした。この忠実な事務員にペンクラブは何の酬いるところもなかったのだが、彼今はいずこにかある?
 戦争末期のペンクラブは、英国などのペンクラブとの関係は全く杜絶され…

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