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北原白秋君を弔ふ
きたはらはくしゅうくんをとむらう
作品ID60757
著者斎藤 茂吉
文字遣い旧字旧仮名
底本 「齋藤茂吉全集 第七卷」 岩波書店
1975(昭和50)年6月18日
初出「短歌研究」改造社、1942(昭和17)年12月号
入力者きりんの手紙
校正者nagi
公開 / 更新2021-11-02 / 2021-10-27
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 北原白秋君は昭和十七年十一月二日年五十八を以て逝かれた。私等は哀惜の念に堪へず、涙をふるつて君を弔つた。五十八歳といへば私よりも三つ年若であるが、君の天才の華がもう二十歳でひらいて、爾來斯壇の大家として、詩に於て小曲に於て童謠に於て短歌に於て縱横に君の力量を發揮し、往くところとして可ならざるものなかつた。そのかがやかしき業績は既刊の白秋全集數種に於て、それからそれ以後の全貌等に於て隈なくうかがふことが出來る。君は詩の世界に於ては無論のこと、短歌の世界に於ても確乎たるエポツクを作つたのであつて、約むれば君は詩人として現世的にも功成り名遂げたと申すべく、既に圓滿の華報を得たとも謂ふべきであるから、それがせめてもの私等のあきらめといふものである。それから君の病氣も新萬葉集の選ごろからその證候をあらはしたともいはれてゐるから、さうすれば滿五ヶ年の『鬪病』生活をしたこととなり、やはりこれも君にしてはじめてこの實行が出來たのだとも謂ひ得るのである。ああ君は斯くのごとくにして此世を去つた。
 短歌研究の記者が來つていふに、君のおもひでの一端を綴つて君を弔ふの縁とせないか。そこで私は一夜君との交關について思を馳せ、それが長い長い絲のごとくにつづいたのであつた。今次にその一部を記録する。
 はじめて君と相見たのは鴎外先生の觀潮樓歌會の席上であつて、あたかも君の詩集邪宗門の上梓せられたころであつた。それから歌集では吉井勇君の酒ほがひの出たころであつただらうが、歌風の古樸に沒頭してゐた自分等はさういふ有名にして劃期的な詩歌集をも讀まずに過ぎたのであつた。また其時分のことを思出さうとしても朦朧として思出すことが出來ない。
 そのうち白秋君がザムボアといふ雜誌を出すこととなり、丁寧な手紙を送つて私に短歌數首を求めたので私は數首の短歌を送つた。只今諳記してゐないが、蟋蟀の歌か何かを送つたやうに記憶してゐる。まだ左千夫先生が在世中とおもふから、私の赤光の出るまへのやうにおもふ。
 そのころから親しい交渉が出來、そのあひだに白秋門の河野愼吾君も交り、河野君から私と中村憲吉君とが槍さびをうたふことを習つたりしたころであるが、こまかい事はもう忘れてしまつてゐる。
 大正四年十月發行のアララギ第八卷第十號には、白秋君のスケツチした私の像が載つてゐる。それには白秋君の筆で、『茂吉、九月十一日、白秋畫』と書いてある。これは白秋君の阿蘭陀書房が麻布坂下町にあつた時分で、私は其處をたづねて酒を飮み、醉つて宿りこみ、次の日は更科の蕎麥などを取つてもらつてまた酒を飮んだりした時に私をスケツチしてくれたのであつた。白秋君の雲母集が出、鴎外先生の沙羅の木が出たころであつた。白秋君が先生をたづねたとき、『だいぶ歌が近寄つたやうだね』といはれたといつて白秋君も嬉しがつてゐたが、實際そのころの白秋君の歌と私の歌は隨…

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