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『文学論』序
『ぶんがくろん』じょ
作品ID60818
著者夏目 漱石
文字遣い新字旧仮名
底本 「漱石文芸論集」 岩波文庫、岩波書店
1986(昭和61)年5月16日
初出「読売新聞」1906(明治39)年11月4日
入力者八坂遥風
校正者友理
公開 / 更新2021-12-09 / 2021-11-27
長さの目安約 17 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 余はこの書を公けにするにあたつて、この書が如何なる動機のもとに萌芽し、如何なる機縁のもとに講義となり、今また如何なる事故のために出版せらるるかを述ぶるの必要あるを信ず。
 余が英国に留学を命ぜられたるは明治三十三年にて余が第五高等学校教授たるの時なり。当時余は特に洋行の希望を抱かず、かつ他に余よりも適当なる人あるべきを信じたれば、一応その旨を時の校長及び教頭に申し出でたり。校長及び教頭はいふ、他に適当の人あるや否やは足下の議論すべき所にあらず、本校はただ足下を文部省に推薦して、文部省はその推薦を容れて、足下を留学生に指定したるに過ぎず、足下にして異議あらば格別、さもなくば命の如くせらるるを穏当とすと。余は特に洋行の希望を抱かずといふまでにて、固より他に固辞すべき理由あるなきを以て、承諾の旨を答へて退けり。
 余の命令せられたる研究の題目は英語にして英文学にあらず。余はこの点についてその範囲及び細目を知るの必要ありしを以て時の専門学務局長上田萬年氏を文部省に訪ふて委細を質したり。上田氏の答へには、別段窮屈なる束縛を置くの必要を認めず、ただ帰朝後高等学校もしくは大学にて教授すべき課目を専修せられたき希望なりとありたり。ここにおいて命令せられたる題目に英語とあるは、多少自家の意見にて変更し得るの余地ある事を認め得たり。かくして余は同年九月西征の途に上り、十一月目的地に着せり。
 着後第一に定むべきは留学地なり。オクスフォード、ケムブリッヂは学問の府として遠くわが邦にも聞えたれば、そのいづれにか赴かんと心を煩はすうち、幸ひケムブリッヂにある知人の許に招かるるの機会を得たれば、観光かたがた彼地へ下る。
 ここにて尋ねたる男の外、二、三の日本人に逢へり。彼らは皆紳商の子弟にしていはゆるゼントルマンたるの資格を作るため、年々数千金を費やす事を確め得たり。余が政府より受る学費は年に千八百円に過ぎざれば、この金額にては、凡てが金力に支配せらるる地にあつて、彼らと同等に振舞はん事は思ひも寄らず。振舞はねば彼土の青年に接触して、いはゆる紳士の気風を窺ふ事さへ叶はず、たとひ交際を謝して、唯適宜の講義を聞くだけにても給与の金額にては支へがたきを知る。よしや、万事に意を用ゐて、この難関を切り抜けたりとて、余が目的の一たる書籍は帰朝までに一巻も購ひ得ざるべし。かつ思ふ。余が留学は紳商子弟の呑気なる留学と異なり。英国の紳士は学ばざるべからざるほど、結構な性格を具へたる模範人物の集合体なるやも知るべからず。去れど余の如き東洋流に青年の時期を経過せるものが、余よりも年少なる英国紳士についてその一挙一動を学ぶ事は骨格の出来上りたる大人が急に角兵衛獅子の巧妙なる技術を学ばんとあせるが如く、如何に感服し、如何に崇拝し、如何に欣慕して、三度の食事を二度に減ずるの苦痛を敢てするの覚悟を定むるも遂に不可…

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