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鴎外の健康と死
おうがいのけんこうとし
作品ID60827
著者森 於菟
文字遣い新字新仮名
底本 「耄碌寸前」 みすず書房
2010(平成22)年10月15日
入力者津村田悟
校正者hwakayama
公開 / 更新2024-07-09 / 2024-07-06
長さの目安約 17 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 昭和二十九年七月九日父(森鴎外)の三十三回忌に、父が明治二十五年八月十日観潮楼落成の日より、その終焉の日、大正十一年七月九日まで住んだ東京市本郷区駒込千駄木町二十一番地の邸趾において、永井荷風さんに揮毫して頂いた「沙羅の木」の詩碑が除幕された。その朝早くラジオ東京と日本文化と二つの放送局から相ついで私の声が流れた。両方とも前後して数日前に父の追憶の話を頼まれ、それぞれの局に行って十分間ほどずつ録音したものであった。その中での一つは私から見た父の生涯の健康状態についての観察を述べたので、話の要点は「鴎外の死は世間一般に信ぜられているように萎縮腎のみによるのではない。腎臓も侵されていたがそれは直接に死の原因となる程度ではなく、主因は肺結核、それも壮年時代から長くひそんでいた結核病巣の老年に至って活動化したことであった。」というのである。
 以上のごとく、この一文の内容を抄録して先に掲げるという、医学論文などによくやる手法になったのは偶然であるが、このことを隠していたのではなく、このときまで私は全く知らなかったのである。父の事績を忠実に記録したのは父の末弟なる森潤三郎であるが彼も真実を知らなかったので、その後の伝記の誤りはすべてこれに端を発しているといってよい。私にこれを語ったのは父の死床における主治医額田晉博士である。私が終戦による台湾からの帰国後勤務した東邦大学の医学部長(現在は学長)であった同君は、父の終世の親友で遺書を托した故賀古鶴所翁の愛姪を夫人とする人である。賀古さんは重態に陥りながら誰にも見せない父を説き落した結果、それなら額田にだけ見せようとその診察を受けることを父が承知したただ一人の医師が額田君で、私と独協中学からの同窓、東大を出て十年に満たない少壮の内科医、賀古氏と同じく父の親友青山胤通博士門下の俊秀であった。父の最終の日記「委蛇録」中、大正十一年壬戍日記六月の条に「二十九日。木。(在家)第十五日。額田晉診予。」とあるのがそれで、その翌日からは吉田増蔵代筆で七月五日まで記録がつづき、九日終焉となったのである。
 私が東邦大学の教授となった年、夏休暇前と思うが「いつか君にいって置こうと思っていたのだが」と前置きして額田君は話し出した。「鴎外さんはすべての医師に自分の身体も体液も見せなかった。ぼくにだけ許したので、その尿には相当に進んだ萎縮腎の徴候が歴然とあったが、それよりも驚いたのは喀痰で、顕微鏡で調べると結核菌がいっぱい、まるでその純培養を見るようであった。鴎外さんはそのとき、これで君に皆わかったと思うがこのことだけは人に言ってくれるな、子供もまだ小さいからと頼まれた。それで二つある病気の中で腎臓の方を主にして診断書を書いたので、真実を知ったのはぼくと賀古翁、それに鴎外さんの妹婿小金井良精博士だけと思う。もっとも奥さんに平常のことをきいたとき…

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