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観潮楼始末記
かんちょうろうしまつき
作品ID60828
著者森 於菟
文字遣い新字新仮名
底本 「耄碌寸前」 みすず書房
2010(平成22)年10月15日
入力者津村田悟
校正者hwakayama
公開 / 更新2024-07-09 / 2024-07-06
長さの目安約 36 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 これは父鴎外が観潮楼を本郷区駒込千駄木町二十一番地、団子坂上に新築してから、その命を終る日までの大部分をここに過した記録を私の思い出す順序に書きとどめ、さらに父の死後私が台北帝国大学に赴任した留守に、二階建の楼が失火で焼け落ちたまでのことをつづったのを、彼の地の「台湾時報」という雑誌に寄稿したものであった。戦後私が帰国してから『父親としての森鴎外』と題する随筆集(昭和三十年四月、大雅書店)を出版するに際してこの文を加え、なお旧稿の終りに「追記」として、父の旧宅の平家の部分で私の弟の類が譲り受けて住んでいた家屋が東京の最初の空襲によって全焼したこと、かくして広い意味での観潮楼跡と呼ばれた鴎外旧宅跡全部を私と弟の名で文京区に寄付し、昭和二十九年七月九日、父の三十三回忌を記念して「沙羅の木」の「詩壁」を建てたことを述べた。今度この随筆集に収めるに当って、追記の後にかの詩壁除幕式の日に発足した鴎外記念会館の計画の進行状態を述べ、昭和三十七年一月十九日が鴎外生誕一百年に当ることを明らかにしておきたいとおもう。



 観潮楼は私の魂の故郷である。その余りに惨ましい最期を思うと胸が痛むので、私は今までそれを語りたがらなかった。しかし今度私が父に関する思い出の文章を集めて書肆に托する機会に臨み、観潮楼を弔う文のないのは何か心にすまぬため、しいて筆をとったのである。
 父は初め、明治二十四年十二月団子坂上の見晴しのいい地所を求めて翌年一月末千駄木五十七番地の仮寓から移転し、別に千住に橘井堂医院という名で開業していた祖父森静男、祖母峰子、曾祖母清をも合して、島根県津和野町を出てから始めて一家が共に住むことを得たのである。なお父がこれより約二年前千住にいたころ、その弟妹もすべてそこに住んだが、父のすぐの弟の叔父篤次郎は、大学医科を出て結婚独立し、妹喜美子は小金井家に嫁し、末弟の叔父潤三郎のみは父と行動をともにしていた。またこの間父の結婚により生れた私は父母の破婚のため、里親に養われたが観潮楼の成った翌年父の家に帰った。
 この土地は根津権現の裏門から北に向う狭い道で団子坂上に出る直前の所で、東側は崖になって見晴しがいい。根津に近い方は土地がひくく道の西側は大きい邸の裏手に面し、当時昼なお暗く藪下道といわれていたが、団子坂上に至る前はしばらく上り坂になってその先はとくに景勝の地を占めているのである。父の買い入れた土地には初めから、三間と台所から成っている古びた小さい板葺の平家とその北端に離れて土蔵一棟があった。父の家族は狭いながら一応この家に入り、その後に平家の後方の長屋二軒と梅林とを買い入れ、ここに二階建の観潮楼を建てたので、その落成は明治二十五年八月十日、これらのことは父の「観潮楼日記」に明記してある。家の構想は私の祖母峰子のかねての案を基として、千住の大工山岸音次郎が建…

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