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小さき影
ちいさきかげ
作品ID60847
著者有島 武郎
文字遣い旧字旧仮名
底本 「有島武郎全集第三卷」 筑摩書房
1980(昭和55)年6月30日
初出「大阪毎日新聞 第一二七五四號~第一二七六一號」1919(大正8)年1月5日~12日<br>「東京日日新聞 第一五一六九號~第一五一七六號」1919(大正8)年1月6日~13日
入力者木村杏実
校正者きりんの手紙
公開 / 更新2022-06-09 / 2022-05-27
長さの目安約 18 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 誰にあてるともなくこの私信を書き連らねて見る。
 信州の山の上にあるK驛に暑さを避けに來てゐる人は澤山あつた。彼等は思ひ/\に豐な生活の餘裕を樂んでゐるやうに見えた。さはやかな北海道の夏を思はせるやうなそこの高原は、實際都會の苦熱に倦み疲れた人々を甦らせる力を十分に持つてゐた。私の三人の子供達――行夫、敏夫、登三――も生れ代つたやうな活溌な血色のいゝ子達になつてゐた。彼等は起きぬけに冷水浴をすまして朝飯を食ふと、三人顏を寄せて事々しく何か相談しながら家を出て行くのだ。暫らくして私がベランダの手欄から眼の下に四五町程離れて見える運動場を見下すと、そこに三人はパンの子のやうに自然の中にまぎれ込んで、何かゝにか人手も借らずに工夫した遊戲に夢中になつてゐる。三人が一塊になつて砂ほじりでもしてゐるかと思ふと、テニス・コートをてん/″\ばら/\に駈け[#挿絵]つて、腹を抱へて笑ひ合ふ姿も見える。その濁りけのない高い笑聲が乾燥した空氣を傳つて手に取るやうに私まで屆く。母のない子のさういふはしやいだ樣子を見てゐると、それは人を喜ばせるよりも悲しくさせる。彼等の一擧一動を慈愛をこめてまじろぎもせず見守る眼を運命の眼の外に彼等は持たないからだ。而して運命の眼は、何時出來心で殘忍な眼に變らないかを誰が知り得よう。
 晝飯が終ると三人は又手に/\得物を持つて出かけて行く。夕餉の膳に對して彼等の口は際限もなく動く。而して夜が彼等を丸太のやうに次ぎの朝まで深い眠りに誘ひ込む。
 こゝで私は彼等と共にその母の三周忌を迎へた。私達は格別の設けもしなかつた。子供達は終日を事もなげに遊び暮した。その夕方偶然な事で私達四人は揃つて寫眞を撮つて貰ふ機會が與へられた。そんな事が私には不思議に考へられる程その一日は事なく暮た。
 かうして暮して行くのは惡くはなかつた。然し私は段々やきもきし出した。K驛に來てから私はもう二十日の餘を過ごしてゐた。氣分が纏らない爲めにこれと云つてする仕事もなく一日々々を無駄に肥りながら送つて行く事が如何しても堪へられなくなつた。私は東京の暑さを思つた。せめてその暑さに浸つて生活しよう。而してその暑さと戰ひながら少しでも仕事らしい仕事をしてのけよう。こんな事をして暮してゐては戸棚の中に仕舞ひこまれた果物のやうに腐つてしまふに違ひない。早く歸らう。さうだん/\思ひつめて來ると、私はもう我慢にもそこに居殘る氣がなくなつた。
 で、私は母に手紙をやつて早く山の方に來て入れかはつてくれるやうに頼んだ。然し母は私を休ませてやらうと云ふ心持ちから、自分は暑さには少しも恐れないからと云つて、容易に動きさうな樣子を見せなかつた。その心持ちを推してはゐながら私は矢も盾もたまらなかつた。母は遂に我を折つて八月の十三日は行つてもいゝと書き送つて來た。
 私はすぐその前夜の夜中の一時七分の汽車で…

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