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日本に於けるクリップン事件
にほんにおけるくりっぷんじけん
作品ID60857
著者谷崎 潤一郎
文字遣い新字新仮名
底本 「谷崎潤一郎マゾヒズム小説集」 集英社文庫、集英社
2010(平成22)年9月25日
初出「文藝春秋」1927(昭和2)年1月号
入力者hitsuji
校正者きりんの手紙
公開 / 更新2022-07-30 / 2022-06-26
長さの目安約 21 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 クラフト・エビングによって「マゾヒスト」と名づけられた一種の変態性慾者は、いうまでもなく異性に虐待されることに快感を覚える人々である。従ってそういう男は、――仮りにそれが男であるとして、――女に殺されることを望もうとも、女を殺すことはなさそうに思える。しかしながら、一見奇異ではあるけれども、マゾヒストにして彼の細君または情婦を、殺した実例がないことはない。たとえば英国に於いて一千九百十年の二月一日に、マゾヒストの夫ホーレー・ハーヴィー・クリップンは、彼が渇仰の的であったところの、女優で彼の細君なるコーラを殺した。コーラは舞台名をベル・エルモーアと呼ばれ、すべてのマゾヒストが理想とする、浮気で、わがままで、非常なる贅沢屋で、常に多数の崇拝者を左右に近づけ、女王の如く夫を頤使し、彼に奴隷的奉仕を強いる女であった。その犯罪が行われた正確な時刻は今日もなお明かでないが、前記一千九百十年の二月一日午前一時以後、コーラは所在不明になり、誰も彼女を見た者がない。夫クリップンは人に聞かれると、妻は転地先で病死した旨を答えていた。が、五箇月を経てからスコットランド・ヤードの嗅ぎつける所となり、刑事が彼に説明を求めると、彼は極めて淡白に、「死んだといったのは[#挿絵]なんです。実は一月三十一日の晩に夫婦喧嘩をしましてね、それをキッカケに妻は怒って家出をしちまったんですが、多分亜米利加へ行ったんだろうと思うんです。亜米利加は妻の生国で、いい男があったらしいから、きっとその男の所へ行ったんでしょう。アレが死んだといい触らしたのは、そうでもいっておかないでは世間体が悪いものですからね」と、直ちに澱みなく陳述した。そうして刑事をヒルドロップ・クレセント三十九番地の自宅へ案内し、家じゅうを隈なく捜索するに任せた。これで事件は曖昧の裡に葬られ、彼の嫌疑は一往晴れたにもかかわらず、クリップンは何に慌てたか、翌日急にどこかへ姿を晦ましてしまった。それが七月十二日で、同十五日に刑事が再び彼の留守宅を捜索したところ、石炭を貯蔵してある地下室の床の煉瓦の下から、首と手足のない一個の人間の胴であろうと思われる肉塊を発見した。コーラが見えなくなってから、実に五箇月半の後であった。
 私はここにホーレー・ハーヴィー・クリップン事件を叙述するのが目的でない。だからなるべく簡単にしておくが、彼について特筆すべきは、このクリップンこそ、無線電信の利用によって逮捕せられた最初の犯罪者であった。彼は一旦アントワープに逃げ、七月二十日亜米利加へ向って同港を出帆する汽船モントロス号へ、ミスタア・ジョン・ロビンソンなる仮名の下に乗船した。しかるにこのロビンソン氏には彼の息子と称する一人の美少年の同行者があって、それがどうも、男装をした女らしいというところから、遂に船長ケンダル氏の疑いを招き、ケンダル氏より無線電信を以て…

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