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解剖随筆抄
かいぼうずいひつしょう
作品ID60929
著者森 於菟
文字遣い新字新仮名
底本 「耄碌寸前」 みすず書房
2010(平成22)年10月15日
入力者津村田悟
校正者hwakayama
公開 / 更新2024-12-21 / 2024-12-11
長さの目安約 13 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

一 キンストレーキ

 古い話である。
 明治初年、わが国で解剖学が教授せられはじめたころはどこでも教材に乏しかった。東大の解剖学教室でも、昭和十九年八十六歳でなくなった小金井良精博士(私の先生であるが、同時に私の父の妹喜美子の夫、すなわち私の叔父。日本解剖学会の長い間の会頭で、日本での解剖学者また体質人類学者の創始者代表者でもあった東大名誉教授)の記録によると、明治二年東大医学部の前身たる大学東校には、土岐頼徳氏が美濃国で発掘したと伝える頭骨顔面部のほかには一物もなかったという。また明治九年ドイツから来朝して解剖学の教授をはじめたお傭い教師ドエニッツ博士は、自ら若干の人骨を持参したが、主としてキンストレーキと称する紙製人体模型によって講義し示説したものであるという。私は小金井先生のほか、ほとんど同時代の東京慈恵会医科大学の教授故新井春次郎博士にもこのキンストレーキの話をきいたが、大正年代私が下谷御徒町の山越工作所、その後は島津などで製造した人体骨格、筋肉、内臓の模型標本に類するもので、取りはずし組立てができる仕掛けであったらしい。その実物の少くも残骸が東大に残っておらねばならぬはずであるが、大正七年私が解剖学教室に助手として入ったころ、既にどこを探しても見当らなかった。日本人で最初の解剖学担任の大学教授故田口和美博士(小金井博士より数年の先輩で一時講座を分けて担任した)並びにこれを助けた今田束氏等の人骨採集、標本製作の苦心はなみなみならぬものであったらしい。今田助教授は田口教授よりも早くなくなられた人で、幕末知名の江川太郎左衛門の縁故者とか、非常に精巧な技術を持っておられ、その側頭(顳[#挿絵])骨に自ら刀を加えて骨性迷路を浮彫りのように現わした標本など私どもも学生時代に見せられたのであった。
 キンストレーキについては、金沢の古い解剖学者故金子治郎博士の談話にも、金沢医学館(金沢大学医学部の前身)に、前田藩が仏国製のキンストレーキを大金で購入したのがあって、医学館の誇りになっていたとあるから、今でも彼地に保存されているかも知れぬ。なお金子博士は人骨採集のため各所の墓場を掘り歩いたことを語られ、自分達の場合は金沢犀川河畔柳原村はずれ、今の犀川鉄橋より上流二町ほどの所にある胴切場といわれた刑死体取捨場に夜半忍んで行って、中にはまだ肉つきの死体があるのを、脇差で首や手足を切り取ったものであるといわれ、またこの仕事を脅威したものは邏卒(警官)でなく、獰猛な野犬群であったと述懐された。
 なおキンストレーキにつき、またそれと関連する明治初期の医学教育革新期における先人の学修材料苦心談としては、私の父の先輩陸軍軍医の長老石黒忠悳子爵の懐旧談を欠くことはできない。
 石黒さんは九十の寿を迎えられた方で私もお訪ねしてお話を承ったのであるが、その明治医学発達史を述べられた…

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