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なきがら陳情
なきがらちんじょう
作品ID60932
著者森 於菟
文字遣い新字新仮名
底本 「耄碌寸前」 みすず書房
2010(平成22)年10月15日
入力者津村田悟
校正者hwakayama
公開 / 更新2025-09-13 / 2025-09-12
長さの目安約 15 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 僕は自分の大学の新築四階建の三階角の部屋で、台風何号かが九州南方海上で日本本土か、朝鮮方面か、どっちへ抜けようかと、思案投げ首のもやもやに感応して、ただの残暑よりも頭が重く、廻転椅子にぐったりして、うつらうつら昔を思い浮べている。
 工場まがいのビルの連立に偉容を誇る近代の新制大学とちがって、医学部なんぞも、空をつく欅並木に沿うて並んだ一つ一つの赤煉瓦のドッシリした独立建物が、主任教授たる大先生の権威を誇る中にも、基礎医学中の基礎医学といわれる解剖学教室の裏庭に、本館と屋根付き道路でつづく解剖実習室、天井の高い長方形のガラス窓の大きい一室で、コンクリートの床の上に十六台の解剖台が二列にならんでいるが、今は学生の実習時間でないので人気がない。
 本館の方から、僕は一隊の軍人さんを案内して入って来た。当時、陸軍士官学校が、若い士官候補生を毎年一回東大へ見学によこしたが、解剖室案内など知的の雑用は、教授の命令で、当時、二人が定員の助手の一人が洋行して、後任の望み手がないためただ一人の助手たる僕の役目にきまっていた。
 見学者というものは、中学の教員、師範学校生、看護婦養成所の生徒などにきまっているが、中にはいると眉をひそめ、鼻をハンケチで被ったりするのがいる。これは死体に対しても、我々に向っても、失礼きわまるので、義憤を感ずるが、生気溌剌たる候補生諸君はさすがに礼儀正しく、室内では軍帽を右腰の辺にピタリとつけ、左手は革帯にさがる短剣の鞘を握り、二列の解剖台の間の通路を、それにつづく隣室のタンクの間を、一列縦隊で床にひびく軍靴の音も高らかにさっそうと行進する。
 この日はあらかじめ珍客に備えて、実習時間以外は常に解剖台にかぶせてあり、多年死体からしみ出した液汁がこびりつき雲のような形の暗褐色の斑紋がえがかれている、ゴム引きの麻布は取り除かれ、バネじかけの重いタンクの蓋ははずされてある。それで死体の足は両側の台から真中の通路にむけて突き出され、そのふやけた親指には標識の木札が凧糸で結びつけてあって、にじんだ墨で姓名性別年齢病名が記してあるが、ところどころに氏名不詳推定年齢何歳肺結核などいうのも見える。
 実習課程の進行中なので死体は、剥がれた顔や頭の皮の乾きかけたのを焼するめのように垂らし、眼や口の周囲のうす赤い筋肉が幾重にも輪をえがき、つるつるの頭蓋骨をむき出し、頭を丸めた孫悟空のごとき相好の中からしなびた眼球や抜け残りの汚く黄色い歯をのぞかせる。
 またタンクのアルコール池で、押し合いへし合い浮び上ろうとするおばあさんが、灰色のざんばら髪をゆらめかせる。そうした名所のところどころで加える僕の説明に、諸君は上半身を少しその方に傾けるだけで、一言も質問しない。見学が終ると、廊下に整列して案内者たる僕に挙手注目の礼をして、威武堂々と帰って行く。何のために来るのか、一度…

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