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つめ
作品ID60936
著者大下 宇陀児
文字遣い新字新仮名
底本 「探偵クラブ 烙印」 国書刊行会
1994(平成6)年3月25日
初出「文学時代」1929(昭和4)年8月号
入力者羽田洋一
校正者mt.battie
公開 / 更新2024-08-11 / 2024-08-10
長さの目安約 36 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 沖野鳳亭が何故竹中格之進を殺さねばならなかったか、その根本の理由に就いては、出来るだけ簡単に述べて置く。この譚の主な目的が、実は沖野鳳亭の選び出した奇妙な殺人方法及びそれがどんな結果になったかということ、その二つを説明するのにあるからなのだ。そして又一方では、殺人の動機そのものが余り珍らしいものでもなく、それを詳しく述べ立てていた日には読者諸君が或は退屈してしまうかも知れぬのだ。要するに沖野と竹中との二人は、住谷良子という女を愛していた。女はしかし竹中の方により多くの好意を寄せていた。そこで、沖野が竹中を殺そうと思い立ったのだった。
 沖野鳳亭は文士だった。文壇では先ず中堅どころの作家である。が、それはそれとして置いて、この男の有っている大きな特徴というのは、妙に気が弱くて、だから又正直であるということだった。人殺しでもしようという男が、気が弱くて正直だというのは、少しばかり変に聞えるかも知れない。が、それはほんとうのことである。彼は自分の創作を発表しても、誰かが賞めてくれるまでは、少しも自信を有てない男であった。なかなか勉強家でもあったので、時には何か素晴らしい文学上の問題などを見付け出す。が、彼はいつもそれを自分一人の胸の中へそっと蔵い込んでしまって、文学論などは一度も発表したことがない。その文学論のうちに、どんなに些細な一ヶ所でも、他から揚足を取られるようなことがあってはならない。とそればかりをくよくよ心配する。事実又、稀に友人の誰彼と議論などを闘わしても、彼はその途中で相手から何か一寸したロジックの誤りを指摘されると、もうそれだけで狼狽の極に達し、顔を真赤にして支離滅裂なことを云い出してしまう。結局は、大綱から観て明かに正当な彼の説も、表面上では見事に相手から圧し潰される。そういったような人柄で彼はあったのだ。
 この非現代的な弱い性格の沖野鳳亭に対して、竹中格之進も住谷良子も、常々から彼を蔑視っていたことは確かである。竹中格之進は、大学出身の理学士だが、相当富豪であるのを幸に、今は別に何処へ勤めるでもなく、自分の家に研究室を造って、道楽に細菌学の研究などをやっている。もとからの友達なので、その竹中の家へ時々沖野が遊びに出掛けるという訳であったが、その頃、新進のピアニストとして大分有名になりかかっていた住谷良子を、最初に知ったのは沖野だった。ふとしたことから知合ったので、それから二三度会ううちに、沖野は激しく良子を恋するようになった。が、それにしても彼は例の気弱いたちで、容易にその恋を打明け得なかったのである。シネマを観に行ったり散歩をしたり、幾度か機会には恵まれながら、もし万一にも拒絶されてしまったらと、沖野はそればかりを先きに心配し、ネチネチと煮え切らぬ態度しかとれなかった。もっともそれには、住谷良子が蠱惑的なうちにもどこか上品なところも…

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