えあ草紙・青空図書館 - 作品カード
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![]() かんじつげつ |
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作品ID | 60949 |
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著者 | 正宗 白鳥 Ⓦ |
文字遣い | 旧字旧仮名 |
底本 |
「正宗白鳥全集第一卷【底本画像有】」 福武書店 1983(昭和58)年4月30日 |
初出 | 「中央公論 第二十三巻第十二号」1908(明治41)年12月1日 |
入力者 | 特定非営利活動法人はるかぜ |
校正者 | najuful |
公開 / 更新 | 2025-03-03 / 2025-03-03 |
長さの目安 | 約 8 ページ(500字/頁で計算) |
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北も南も二階建の大きな家に遮られてゐるが、それでも隙間を漏れて、細い光が障子の隅にさしてゐる。小春日和にこの谷底のやうな部屋も温かくて、火鉢の炭火も消えかかつたまゝ忘れられてゐた。山地佐太郎は中古の括枕に長く髮の伸びた頭を乘せて仰向けに寢てゐること既に二三時間。目は開いてゐるが、心はとろ/\と眠りかけ、心臟の鼓動ものろい。壁一重隔てゝは、天氣のいゝせゐか豆腐屋の聲、屑屋の聲も晴やかに響いてゐる。車の音や自轉車の鈴や下駄の音が消えては又起り、追かけ/\絶え間がない。屋根の上には鳥が喧しく鳴いてゐる。雀の聲も忙しさうだ。しかし佐太郎の耳には何の刺激をも與へない。妻君は朝から出掛けて、茶の間もひつそりしてゐる。
やがて雲が隱したのか、日がもう西へ廻つたのか、障子の光が消えてしまふと、佐太郎は目をこすりながら起きて、火鉢の前に坐り、火を掻まはして、煙草を一本吸うた。吸ひ終ると、茶の間から炭斗を持つて來て添へ炭をした。そして又煙草を一本吸ひながら、枕の側に散らかつてる新聞を引き寄せて、取り留めもなく目を通したが、頭に殘る文字もない。で、二三本吸殼を灰の中に突き立て、もう煙草にも厭いたらしく、唾を吐いて、乾いた唇を嘗めずり、漂へる煙の中に肥つた膝を抱いてゐた。
ふと表通りに怒鳴る聲が聞える。荒々しい言葉が亂發されてゐる。それが遠のくと、大勢の走る足音が續く。
「今日は馬鹿に戸外が騷々しい。」と思ひながら、彼れは肘枕で横になつた。
無念無想で、今朝から彼れの頭は白紙のやうである。
暫らく戸外の音が消えて、炭のはじける音と懷中時計の音と、彼れの鼻息とが部屋の空氣を動かしてゐたが、やがて北隣りの二階から蓄音機の音が落ちて來た。日曜毎に三時頃からこれが聞えるので、最初が義太夫の三人上戸、その次は箱根八里の追分節、終りが唱歌。今日も變りはなく、誰れかが縁側で足拍子を取つてる樣子だ。
彼れは寢ながら、頭と指先で拍子を取り、口の内で蓄音機と合唱を試みてゐたが、ガラツと格子戸が開いて、「御免下さい。」と威勢のよい聲がするので、彼れは寢たまゝ頭だけ持上げて、「何方です、……お上りなさい。」と云ふ。その聲が顏に似合はず、可愛らしい。
入つて來たのは色の白い美しい青年。佐太郎の甥の時男である。額の汗を拭ひながら、
「叔父さん、先日お頼みした事はどうなりました。」
「あゝ又忘れた、明日か明後日、屹度間違ひなく聞いて見てやる。」
「困りますねえ、早くあの方が極らにや、私も落付けませんからねえ。」
「まあ安心して居れ、大抵は成功するよ。」
「あれだつてあまり望ましくもないんですけれど、私ももうどうしても自活しなくちやならんのですからね。」
「はゝゝ自活なんて仰山だね。」と、佐太郎は目尻を下げて笑ふ。
「でも、假令十圓でも十五圓でも、自分の腕で儲けるとなると愉快ですから、それに私も來年…