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よだれ
作品ID60951
著者正宗 白鳥
文字遣い旧字旧仮名
底本 「正宗白鳥全集第一卷【底本画像有】」 福武書店
1983(昭和58)年4月30日
初出「太陽 第十五巻第一号」1909(明治42)年1月1日
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者najuful
公開 / 更新2026-03-03 / 2026-03-02
長さの目安約 7 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 銀座の裏通りに、和洋何れともつかぬせゝこましい二階家がある。壁の柱も汚れて、外から見ると寢ぼけてゐるやうに見える。二階は通信社で、階下は鞄屋。鞄屋は小さいながら老舖で中々繁盛してゐる。通信社は創業まだ日淺く、萬事整頓しないが、活氣は充滿してゐる。社員凡て十數人。
 毎日十二時近くなると、細い谷のやうな所の危かしい階子段に、靴や下駄の音が騷々しく續く。その音の加減で、誰れだ彼れだと、給仕の耳にもちやんと區別がつく。何時も急用ありげに、チヨカ/\と驅け上るのは坂本さん。ドシン/\と踏み占めて泰然として入つて來るのは安田さん。閑雅なのは荒野さん。雪踏をちやらつかせるのは村松さん。
 そして一月ほど前に入社した塚野鞠太郎は、何時も階子段の壁に添うて、コツソリ音をも立てず上つて來る。服裝は常にフロツクコートに高帽で、襟飾や飾針にも、一寸好みを見せてゐる。丈高く色白く、口[#挿絵]も美事に生え、美事に手入れをされてゐるが、惜しいことには、下唇が反りかへつて、片端が少し曲り、稍もすれば齒莖が顯れる。で、彼れは笑ふにも物を云ふにも、絶えずそれが氣になつてならぬらしく、強いて口を窄めたり、矢鱈に絹手巾で口の邊を蔽うたりするのが癖になつてゐる。しかしそのために自分が醜い男であるとは思つてゐないらしい。で、時々は近所の鳥屋などへ行つて、女中共に樣子を見せたり、若い女のある家庭へも、何かにつけて出入して愛嬌を賣つてゐるが、そんな折は大抵一人であつて、偶に他人と一緒に行かうなら、詰らなさゝうな顏をして口數も少ない。社の者をも殊に憚つて避けてゐるが、或る日鳥屋で爪楊子をつかひながら、柔しい聲で、女中と洒落競べをやつてる所を、同僚の安田に見つけられて、うんと油を取られたことがある。この安田と云ふ奴、口ばかり達者な意地くね惡い男で、どうかすると、ストーブ會議の話の種に、塚野を槍玉に擧げるが、そんな時、この連中に誰れ一人、同情のある者のあらうことか、一人が云ひ出せば、皆ぞろ/″\と附和雷同して、無殘な批評を下す。塚野の口曲りは山口のチビと並んで、仲間内の愚弄の中心で、名を呼ぶ代りに、口を歪めて指さしては、「これがかうした、あゝした。」と云ふ。給仕までもちやんと心得て、口曲りさんで通つてゐる。そしてチビの山口は、何と云はれても平氣で、始終微笑顏で、大勢の中に立ち交つて、氣焔を吐いてゐるが、塚野はさうでない。
 彼れは滅多にストーブには近寄らず、空いた机でコソ/\原稿を書いて、用事が濟めば直ぐに出て行く。何かの都合で社に居ると、窓際の空地を歩いたり、或ひは人氣ない所に直立して、手を組み合せて前に垂れ、ボンヤリ空間を見てゐる。そしてストーブの側で無駄口を叩いてる安田などが不意に「塚野君」と聲を掛けると、胸をドキツカせて、驚いて振り返る。「又おれを冷かすんぢやなからうか。」と、目は自から外れて、容…

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