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戦後文章論
せんごぶんしょうろん
作品ID61129
著者坂口 安吾
文字遣い新字新仮名
底本 「坂口安吾全集16」 ちくま文庫、筑摩書房
1991(平成3)年7月24日
初出「新潮 第四八巻第一〇号」1951(昭和26)年9月1日
入力者持田和踏
校正者ばっちゃん
公開 / 更新2023-10-20 / 2023-10-16
長さの目安約 16 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 言葉は生きているものだ。しかし、生きている文章はめったにありません。ふだん話をするときの言葉で文章を書いても、それだけで文章が生きてくるワケには参らないが、話す言葉の方に生きた血が通い易いのは当然でしょう。会話にも話術というものがあるのだから、文章にも話術が必要なのは当り前。話をするように書いただけですむ筈はありません。
「ギョッ」という流行語のモトはフクチャン漫画だろう。横山隆一の発明品である。彼は漫画の中へギョッだの、モジモジだの、ソワソワだのという言葉を絵と同格にとりいれるという珍法を編みだした。
 モジモジ、ギョッ、ソワソワを絵だけで表現するのはそうメンドウではないだろうが、言葉を加えた方が絵だけで表現するよりも、はるかに珍な効果をあげる。二科会員隆一先生はそれを見破りあそばされた。凡庸な眼力ではなかろう。
 しかし、漫画というものは、絵よりも文学にちかいものですよ。それも少しの差ではなくて、絵が三分、文学が七分、否、一分と九分ぐらいに全然文学の方に近いだろうと私は思っています。
 紙芝居は一目リョウゼン、絵は従で、物語の方が主ですが、それにくらべると、漫画の方は絵が多くて言葉の使用は甚だ少い。けれども、その多少によって絵か文学かが定まるわけではなくて、漫画の発想も構成もほぼ文学そのものだという意味です。絵で読むコントであり、落語であります。
 ですから漫画家は文章がうまいな。近藤日出造や清水崑の人物会見記は、漫画も巧いが、文章の巧さもそれ以下ではない。
 本職の絵カキはデッサンということを云う。文章にはそれにちょうど当てはまるものがないようだが、もしも文章に基本的な骨法があるとすれば、物の本質を正確につかんで、ムダなく表現することだろう。彼らの会見記はその骨法にかなうこと甚大で、それも最短距離で敵の本質をほぼ狂いなく掴んでいるし、さらに文章の綾を加えて仕上げるのが巧妙だ。綾にもムダが少い。漫画というものが、本来ムダがないせいかね。
 横山兄弟も、うまい。弟の方は文士の探訪記に同行して挿絵をかいてるが、彼自身が絵も文章も書いた探訪記は文士以下ではないのである。兄貴の方は今日出海の「山中放浪」をそっくり借用して、人物を実名に書きかえて、自分の比島従軍記をこしらえあげてしまったが、まったくこの先生は珍法を編みだす名人である。しかし巧みなものです。歴史漫画の荻原賢次の文章は見たことがないが、これも名手に相違ない。彼が新大阪に連載中のゼロさんと横山泰三のプーサン(夕刊毎日)は社会時評としても卓抜で、その諷刺とユーモアは低俗なものではない。甚しく文学的なものですよ。
 サザエさんも絵はあまりお上手ではないが、文章は相当うまいし、特に思いつきが卓抜だ。その他数名の新進流行児が揃って思いつきが相当に新鮮で、ブロンディの思いつきはすぐ限界がきてしまうが、彼らはなか…

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